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ヨコハマと戦災復興の記憶

社会 | 神奈川新聞 | 2015年7月19日(日) 03:00

 第2次大戦空襲で焦土となった横浜が、戦後に復興していく過程を、本社報道写真アーカイブズで振り返ります。

焦土となった横浜

 占領軍のかまぼこ兵舎(下)が並ぶ1950年代前半の横浜市中区吉田町周辺。左上は桜木町駅、左下から流れるのは大岡川、中央の川は派大岡川。この一帯の接収解除は戦後11年、1956年8月だった。

カストリ横丁

 桜木町駅前の桜川沿いにあった「カストリ横丁」。カストリとは密造焼酎の俗称で「3合(号)飲むと(酔い)つぶれる」とかけて「カストリ雑誌」の俗語も生まれた。横町には粗悪な酒を売る約150軒の飲食店が並んだが、1953年、桜川の埋め立てに伴い消滅した=1951年、横浜市中区

ゾウの「はま子」

 開園間もない野毛山動物園に入園したインドゾウ。戦時中、猛獣類は空襲に備えて殺された。子どもを背中に乗せて歩くゾウは平和の象徴だった。ゾウはこの年のこどもの日に公募で「はま子」と命名。1951年から2003年に息を引き取るまで52年間、市民に愛された=1951年4月22日、横浜市西区 

横浜新道開通

 開通初日の横浜新道。保土ケ谷と戸塚を結ぶ有料道路で、国道1号の渋滞緩和のために建設された。戸塚側は、大磯に暮らした元首相の吉田茂が踏切渋滞を避けるために造らせたといわれる「ワンマン道路」。吉田はこの日のテープカットにも参加した=1959年10月27日、横浜市戸塚区

「関内牧場」

 空き地が目立つさまが「ビルの牧場」「関内牧場」とやゆされた横浜市中区の関内地区。占領軍による接収が解除された後も再建が進まず、空襲で焼け焦げた跡を残したビルもあった。左は3年後に神奈川新聞社の本社となる旧十五銀行ビル=1954年

派大岡川の食堂船

 横浜・吉田町近くの派大岡川に現れた食堂船。復興過程で集結した出稼ぎ労働者のために、廃船を改造した市営の簡易宿泊所や民営の水上ホテルも用意された。この川は後に埋め立てられ、現在は首都高速横羽線に=1959年、横浜市中区

亀の橋

 中村川に架かる亀の橋。対岸に占領軍キャンプがあり通行止めだった。当時の記事によると橋は「魚(カマス、イワシ)の干し場とこどもの遊び場」。今は川の上に首都高速が覆いかぶさり一変した。丘の上の建物はフェリス女学院=1955年、横浜市中区

飛行場

 戦後間もない1945年9月、米軍が横浜の繁華街に造った飛行場。現在の若葉町から末吉町に当たり、伊勢佐木町商店街に平行していた。左に小型機が見える。接収解除は1952年7月=1950年ごろ、横浜市中区

関内駅

 建設中の国鉄根岸線関内駅。開業は1964年5月。橋脚が建てられつつある運河は派大岡川で、後に埋め立てられ首都高速に姿を変えた。背景は横浜市役所の旧庁舎=1960年、横浜市中区

=おわり

 
 

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