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もう一つの「風立ちぬ」
ある技術者の戦争(1)国産初エンジン、実用化目前の終戦

社会 | 神奈川新聞 | 2014年8月13日(水) 03:00

 1945年8月7日。日本初のジェットエンジンを積んだ「橘花(きっか)」が、12分間のテスト飛行に成功した。

 長時間の飛行ではエンジンに亀裂が入ることがすでに分かっていたが、問題ではなかった。特攻機だったからだ。

 プロペラ機とは比較にならない速度とパワーを持つ新時代のエンジンに、関係者は沸き立った。広島に原爆が投下された翌日のことだった。

米国スミソニアン博物館に展示されている「ネ20」エンジン。終戦時に秦野にあったものは破壊されたが、ほかの土地にあったものは間逃れたという

 「ネ20」と名付けられたそのエンジンは、秦野で完成の日を迎えた。横須賀の海軍工場にあった開発機関は1945年2月、戦火を避けて極秘裏に秦野へと疎開していた。

 開発責任者を務めたのは種子島時休(ときやす)。戦国時代の「種子島銃」製造で知られる種子島時尭(ときたか)の子孫だ。

 少年時代のあだ名は「テッポー」。自分の生まれを強く意識し、新兵器開発を志して横須賀海軍機関学校へ。その後は海軍に籍を置きながら東京帝国大やパリでの研究を経てエンジンの専門家となった。

 時休は太平洋戦争が始まると、上層部にジェットエンジンの必要性を説いた。翌年、海軍航空技術廠(しょう)発動機部にジェットエンジンのための「研究第二科」が新設され、時休はその主任に就いた。

 秦野での開発は専売局が使っていた倉庫を工場にして行われた。バックファイヤー(逆火)現象や亀裂の発生など、未知の開発は苦難が続いた。

 しかし戦火がすでに首都を襲う中、早期の実用化は至上命令だった。使命感に駆られた約70人の開発者は、文字通り昼夜を問わず作業に没頭した。

 時休の盟友で当時、技術少佐を務めた永野治(故人)は後にこう記す。

 「苦闘の四カ月ではあったが、秦野の生活は私にとって生涯の最良の思い出となった」

 だが心血を注いだ「ネ20」が空を舞ったのは、冒頭の一度きりだった。

 その8日後。玉音放送を聞いた時休は、下宿先の自室に閉じこもった。抜いた軍刀を手に、切っ先をじっと見つめていた姿を、心配して見に行った家人が目撃している。

 その後、部下を集めてこう訓示したという。「残念ではあるが、日本においてジェット機の最初の実験を成功させたのは、われわれであるという誇りを永久に心の底に焼き付けて、一生の思い出としてもらいたい」

 エンジンは、証拠隠滅のために破壊された。

 秦野市生涯学習課文化財班の職員で、時休についての論文をまとめた大倉潤(47)はこう語る。

 「それまでの人生をささげたエンジンを、完成してすぐ自らの手で壊さなければならなかった時休は、どういう気持ちだったのか。軍刀を見つめながら、何を考えていたのか。ただ今だからこそ言えることだが、特攻兵器だった『橘花』が実用化されずに終わったことは、(戦死者が出ず)むしろ幸運だった」

 時休は戦後も技術開発に没頭、87年に85歳で生涯を閉じた。命日は橘花が飛んだ8月7日だった。


 戦争に翻弄(ほんろう)されながらも、技術者として日本初のジェットエンジンを完成させた種子島時休。その一途(いちず)な生き方は、アニメ映画「風立ちぬ」(2013年公開)で描かれたゼロ戦(零式艦上戦闘機)の開発者・堀越二郎の姿とも重なる。もう一つの「風立ちぬ」が、秦野にあった。

=敬称略

 
 

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