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徴用船の悲劇
漁師たちの戦争(1)軍部を怒らせた記事「漁船撃沈」  

社会 | 神奈川新聞 | 2014年8月6日(水) 03:00

 日中戦争から敗戦に至る激動の時代、日本軍は、大型漁船から小型の木造漁船までもをかき集めて戦争を続け、多くの犠牲を出した。過酷な漁船の闘いを追った。


 日中戦争さなかの1940(昭和15)年9月。1本の記事が、神奈川日日新聞(現・神奈川新聞)の紙面に載った。

 「三崎の漁船が揚子江で撃沈され、船員たちが犠牲になった」-。旧日本軍に徴用された漁船が、三崎から遠く離れた異国で海の藻屑(もくず)と消えた事実を知らせるものだった。

 三崎の漁師が揚子江で戦死した、という地元のニュースとしての報道だったが、波紋は思わぬところに広がった。記事は結果的に「軍が漁船まで徴用している」という事実を、すっぱ抜いた形となったのだ。

 「軍事機密を明らかにした」として、執筆者の樋口宅三郎記者は、海軍の基地である横須賀鎮守府に呼び出され、厳しく査問された。スパイの疑いは晴れたが、樋口記者は鎮守府への出入りを1カ月間差し止められた。

 戦局が厳しさを増す中、民間船まで借り出している実情が知られることは、軍にとって都合が悪かったとみられる。

帝国海軍に徴用された漁船。荒波をかきわけ監視を続ける。船首と操舵(そうだ)室の上に大砲と機銃が見える(写真提供、軍事史研究家・服部雅徳さん)

 実は、民間船の徴用は1894(明治27)年に開戦した日清戦争以降、行われていた。英国、米国では大型船とともに、漁船の徴用が早くからあった。

 「日本で大規模に小型の漁船が数多く徴用され始めたのは、日中戦争から」。こう語るのは、東北を中心に関東までの徴用漁船を丹念に調査した宮城県在住の郷土史家で「戦没船を記録する会」会長、新関昌利さん(79)だ。

 盧溝橋事件(1937年)から始まった日中戦争では、陸軍は華南(揚子江周辺地域)でも作戦を展開。網の目のように流れる浅い水路での兵員・物資輸送に手こずっていた。後方支援に役立つ船を調達することは、喫緊の課題だった。

 そこで浮上したのが、漁船だった。小型のサバ釣り船(12トン内外、全長約15メートル)であれば、浅い水路も難なく進むことができ、小回りも利く。一方海軍は、揚子江河口の封鎖のために、やはり小型の船を必要とした。

 新関さんは「漁師は操船技術が高く、海について熟知しており、台風でも難なく乗り切ることができる。そうしたことから目を付けられたようだ」。こうして、軍による小型漁船の徴用が始まった。

燃料も統制…軍に逆らえず

 軍が人々の財産でもあった漁船を徴用できた背景には、当時の法律があった。

 ベースとなった法律は、1882(明治15)年に制定された「徴発令」。李朝末期の朝鮮半島で発生した動乱(壬午事変)に出兵するため、国内から食料、燃料、作業員、運搬用の牛馬などを徴発しようと定められた。

 その後、日中戦争が泥沼化すると、より戦争遂行体制を迅速に整えるため、1938(昭和13)年に「国家総動員法」を制定。続いて「国民徴用令」(1939年)、「船員徴用令」(1940年)、「戦時海運管理令」(1942年)と国民の財産、生命を国に差し出すための法律が相次いで施行された。

 漁師や船も国の管理下におかれ、より容易に戦争に投入されていった。神奈川県内からも三崎、横浜、小田原などの港から徴用された。

 「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)の大井田孝さん(72)は説明する。

 「当時の漁民は国家総動員法などの法律でがんじがらめにされた上、燃料も統制されていたので国(軍)の徴用命令に逆らうことができなかった。戦争に行かざるを得なかった」

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