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戦争のある人生
演劇の部隊(2)藤村の舞台の教訓「信じるものを疑え」

社会 | 神奈川新聞 | 2015年12月21日(月) 15:32

 日本の敗戦が知れ渡ると、中国国民党の青天白日満地紅旗が街のあちこちに翻った。高津一郎さん=横浜市西区=が陸軍の見習士官として南京の南方約80キロ、長江東岸の港町、蕪湖にいた時のことだ。

 所属大隊の大隊長は逆上し、広場に重機関銃3丁を据え、旗を降ろさなければ攻撃すると住民らを脅した。数々の武勲を立てた軍人だった。

南京の中央軍官学校講堂で行われた日本軍の降伏式。日本の中国派遣軍総司令官・岡村寧次大将が中国陸軍総司令官・何応欽1級上将に投降した=1945年9月9日(米陸軍通信隊撮影)

 その大隊長から、天皇の恩賜品を取りに南京へ行くよう命令された。日本の降伏で治安のタガが外れ抗日ゲリラの危険もあったが、高津さんは3発の手りゅう弾を持ち、3人の部下と列車に乗った。3発のうち1発は「自決用」だった。

 「南京の司令部では、山と積まれた書類が燃やされていました。戦犯の恐れのある書類は全部焼却せよ、との指示だったそうです」

 危険を賭して南京へ赴き得た物は「恩賜品」とはいえ、たばこか何かの小さな包みだった。翌日蕪湖に戻ると、命じた大隊長の葬列が目の前を通るところだった。「自決したそうです。自覚していたんでしょう、戦犯になると」

 捕虜として蕪湖から滁県へ移った高津さんは、復員主任を任じられた。大隊の1300人余りを日本に無事送り届ける重要な役目だった。復員後の生活を描いた芝居を上演したのもこのころだ。

 出港地の上海に集結するよう指示されてからは、たばこの包みを携え国民党軍の司令部に日参。長江を渡る船を手配するための賄賂だった。「簡単に認めてくれないので毎日頭を下げました。みんなを無事に帰さなきゃならないから」。1週間後、渡し船が出た。

 奇妙だった。集団死への一直線上にあったはずの軍隊で「生還」が仕事になるとは。自身、この地で死出の任務を負わされかけていたのだ。

 1944年末、教育隊にいた高津さんは、特攻隊の志願者募集を教官から告げられた。その年の10月、フィリピン戦線で戦闘機の体当たり攻撃が初めて組織的に実行されていた。「話の後に酒が振る舞われ、集団的な狂騒状態になりました」。行かなければ卑劣者だ、との後ろめたさや自己陶酔が場を支配した。

 けれども一人だけ、いさめる戦友がいた。

 彼は、新協劇団による島崎藤村原作の舞台「夜明け前」のことを語った。明治維新で天皇親政を信じた主人公は、期待に反した近代国家の成立に落胆し絶命する-。彼は言うのだった。「高津君、自分が信じるものを疑ってみることだ」。ここにも演劇があった。

 新協劇団は1934年に結成され、東京の築地小劇場を拠点に、劇作家の村山知義や俳優の滝沢修らが活躍した。法政大大原社会問題研究所の「日本労働年鑑」によると、39年の観客動員は約7万人。同劇場では千田是也らの新築地劇団(29年結成)も活動したが、両劇団とも40年、劇団員の大量逮捕を経て強制的に解散させられた。

 菅孝行著「戦後演劇」によると、代わって戦意高揚のため、半ば官製の翼賛劇が各地で上演された。41年に発足した日本移動演劇連盟の44年の年間観客数は458万人に上ったという。

 演劇にとどまらず小説や詩歌、流行歌など文化芸術の「総動員体制」が日米開戦前に既に整えられていた。

「死の門」を経た意味

 おれ、考えちまった……柄じゃねえけどよ。国っておれたちに何をしてくれた……(高津一郎作「ハマ野毛カストリ横丁純情族」、1998年)

 「“戦争ぼけ”です。ぼーっとして何も手に付かない」。横浜の老舗劇団「麦の会」の創立メンバー、高津さんは、復員直後の自分をそう回想する。

 マラリアの高熱に耐え、故郷横浜に帰着したのは1946年3月10日。家族との2年4カ月ぶりの再会は、病床にあった母を起き上がらせるほどの幸福をもたらした。

 だが自身は、自我の喪失にもがいた。軍隊生活の価値観が敗戦を境に全否定されたのだ。「軍国少年から国体観念がすっと抜けたまま、何か空っぽのようで」

「麦の会」初代代表を務めた高津一郎さん。「私たちの命は誰のものか」と問い続けた=今年7月、県立青少年センター演劇資料室

 空虚感を埋めたのは演劇と哲学だった。

 友人は東京で再開していた新劇公演に連れ出してくれ、チェーホフの「桜の園」やゴーリキーの「どん底」を見ては人間らしい生き方を自問した。民主主義を実践し社会に根付かせるために横浜のキリスト教青年会(YMCA)が始めた演劇研究会や哲学講義にも顔を出し、真理とは何かを探った。もちろん「国体」ではなかった。

 「1年半ぐらいかかったんじゃないかな、自分を取り戻すのに」。48年、その仲間らと結成した「麦の会」の旗揚げ公演で、太宰治原作「春の枯葉」を上演した。

 わたしは口惜しい!こんな無責任な国のために、みんな自分の命を投げだそうとしたんです(同)

 60年代初め、横浜のアマチュア劇団員がテレビドラマの端役に起用されたことがある。そこでは、自分たちの公演に差し支えるほどこき使われた。安上がりの「員数」として消費されたのが実態だった。

 「個人を軽んじ侮蔑することは結局、命を平気で使い捨てる戦争に行き着く」。高津さんは「国家意思によって死の門に立たされた」自らの軍隊経験を重ねながら、平和に潜む戦争の思想と闘った。演劇の創作を通じて。

 61年に著した戯曲「笛と獣」に次のような一節がある。高度成長から取り残された貧困の中で、なお奮闘する人々の物語だ。戦争に負けて得られたものは何か-という復員直後の自問に対する、一つの答えが示されている。

笛  伯父さん、ここは、一体何んなんですか?
重政 単純な生きものにされてしまった哀れな者たちが、もう一遍人間らしくなろうとしてうごめいている場所だよ。


 高津さんの答えとは、「自由」だった。 

=おわり

 弾圧されていた自由な演劇活動は戦後まもなく再開したが、戦前からの連続性もみられた。菅孝行著「戦後演劇」は、国粋主義こそ一掃されたものの、感性は「戦前新劇をそっくりそのまま移行させたもの」だったと指摘。菅井幸雄著「戦後演劇の形成と展望 上巻」も「依然として私的な体験に閉じこもる作品傾向や安易な外国演劇の紹介によりかかる傾向」があったとした。

 県内には戦後、アマチュア劇団が相次いで誕生。「麦の会」のほか「葡萄座」(1946年)、かに座(50年)、「河童座」(51年)など今も続く老舗劇団が多い。52年には加藤衛横浜市大教授が中心となり、アマ演劇の発展を目指す「横浜演劇研究所」が発足した。

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