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戦争のある人生
演劇の部隊(1)捕虜たちの熱演、帰還を願って幕が開く

社会 | 神奈川新聞 | 2015年12月17日(木) 10:00

 中国南京から長江を挟んで50キロほど離れた滁県(現・滁州)の畑地に、突如として千人規模の野外劇場が立ち現れた。

 1945年初冬。敗戦で武装解除され、中国国民党軍の捕虜となっていた陸軍の3大隊、数千人の集中営で、捕虜たちが芝居を打ったのだ。

 「故郷の春」と題した劇は、軍服姿の夫が復員する場面から始まった。夫を待ち続けた妻も、もちろん男が演じた。

 かつら、くし、着物、げたといった衣装や小道具は召集前に職人だった兵が作り、それを大隊きっての美男子に着せて女装させたのだった。

 「復員兵が荷物一つ抱えて家に帰り、奥から姉さんかぶりをした妻が出てくる。2人ともびっくりして、しばらく見合っているんだけれど…やがてバッと抱き合うんです」

 陸軍少尉で、劇の演出助手、舞台監督を務めた高津一郎さん(92)=横浜市西区=は舞台袖から客席を見て驚嘆した。千人の観客が見る間に総立ちになっていた。「兵隊たちは動揺したり喜んだり悲しんだり叫んだり。芝居ってこんなにすごいのか、と」。描かれたことは、皆がこれから経験するはずの物語だった。

日中戦争で南京に入城する日本兵=1937年12月

 企画したのは、高津さんの所属した大隊の上官、第1中隊長。捕虜といいながら鉄条網や銃を持った監視兵はなく、日本兵に自主管理が任されていた。国共内戦が激しく、捕虜の管理どころではなくなっていたからだ。

 武装解除の後、国民党軍は大隊ごとに数十丁の小銃と実弾を日本側に返却し、自衛を命じて去った。食料は、米が1年分ほど備蓄されていて心配なかった。

 「自由でした。訓練も討伐もない。だから文化活動が始まったんです」。流行歌、手踊り、俳句や短歌の会、雑誌や新聞の発行。その中にあって第1中隊長は、高津さんが今思うには、芝居を単なる娯楽でなく「復員準備」と位置付けていたようだった。

 命じられて高津さんが書いた台本は、主人公が遠い故郷に思い巡らす、という感傷的な内容だった。

 けれども中隊長は一蹴した。「帰るのは分かっているんだから、その後のことを書け」と。中隊長が書き直した台本は冷静だった。老親は出征中に亡くなり、兄も南方で戦死、憲兵だった友人は戦犯として逮捕…。

 高津さんは言う。「彼は状況を正確に把握していたんですね」。公演は進駐軍が日本から撤退した場面で大歓声のうちに幕となった。必然の死に直面していた兵士たちは、既に生還への途上にいた。

 復員後、高津さんは横浜で今も続く劇団「麦の会」の創立メンバーとなった。だが、滁県の経験が直結したのではない。戦後の価値観を見いだすのに相当の思索を要した。

南の島に雪が降る 戦地での演劇といえば、俳優加東大介著「南の島に雪が降る」が知られる。陸軍衛生兵として応召し西ニューギニアのマノクワリに赴いた加東は戦中、将兵の士気を鼓舞する名目で劇団づくりを命ぜられた。用途のなかった落下傘の生地などを使って作った「雪」は、北国出身の兵に望郷の念を喚起した。

 戦後シベリアに抑留された歌手三波春夫も、捕虜収容所で仲間と芝居を上演、浪曲や歌謡曲も創作した。評論家平岡正明の論考「敗戦の演劇3」(雑誌「公評」1998年11月号)によると、48年に三波が手がけた劇が「ソ連を軍国的に表現した」と政治指導部員(民主化委員)から批判されたこともある。民主化委員とは、ソ連側に「転向」した日本人捕虜だった。

遮蔽幕の中で泣いた

 何もしないでいいのか、こんなことをしていていいのか-。

 日米開戦から2年近くが経過し戦況の悪化がささやかれる中で、20歳前後だった高津さんの頭にそんな問いが幾度となく去来していた。

 県立商工実習学校(現県立商工高校)で応用化学を学び化学メーカーに就職したものの、ほどなく体調を崩し退社、静養。その後は大学の高等師範部で教員養成の課程を受けながら、臨時教員として横浜の三ツ沢国民学校の教壇に立っていた。

東部64部隊の営庭で撮影された面会日の家族写真。中央が高津一郎さん=1943年12月(高津さん提供)

 ある夜、中学時代の友人と語り合った。「高津、おまえ、覚悟しろ。ガタガタしても結局入るよりしょうがないだろう」。そんな言葉に押され、高津さんは1943年12月、川崎・溝口の陸軍東部64部隊に現役入隊した。そこで1カ月ほどを過ごした。

 ほどなく、兵舎の窓際に束ねてあった灯火管制の遮蔽(しゃへい)幕の中に、同じ班の何人かが代わる代わる入るのに気付いた。

 「幕は分厚いでしょう。中で泣いているんですよ、お母さん、と」。兵営は家族の暮らす横浜から遠くはなかったが、塀の内と外とでは、とてつもない隔たりがあった。自身も何度か幕にくるまった。

 翌44年1月、高津さんは中国派遣軍の一員として南京に送られた。

 川崎駅を軍用列車でたち、福岡・博多港から朝鮮へ。「朝鮮、満州を列車で通った時はショックでした。あまりに貧しいものだから」。行けども行けども窓外に途絶えることのない陋屋(ろうおく)、はげ山。日本軍が「解放」したはずの地域の、それが現実だった。

 かの地での任務は重要都市南京の警護。高津さんは周辺数カ所を転々としながら初年兵教育、幹部候補生教育、予備士官学校を経て45年6月、見習士官に昇進した。実戦はなく教育ばかりの日々だった。

 「中国でも治安のいい場所でした。ただ、たまに行う国民党軍の討伐では、見習士官が先兵として100メートルぐらい先を駆けていくんです。向こうから弾がピューンと飛んでくる。ただの脅しなんですが、非常に怖かったです」

 大戦末期の当時、米軍が南京の300キロ東、上海に上陸すると想定され、中国派遣軍の焦点は対ソ戦から対米戦へと移っていた。

 その戦術は、戦術ともいわれないほど酷薄だった。急降下する航空機と戦う対空射撃、黄色薬(爆薬)を抱えて戦車の下に飛び込む対戦車攻撃、そして何キロもほふく前進して敵陣に接近し、相手を刺し殺す対陣地攻撃。

 勝てるとは誰も思わなかった、と高津さんは振り返る。「でも俺たちがしっかりやらなきゃいけないんだ、という思いはありました」

 南京は蒋介石が率いた中国国民党政府の首都だった。1937年7月に日中戦争が始まり、日本軍は同年12月に南京を占領。このとき「南京大虐殺」が起きたとされる。被害者数には諸説あるが、日本政府は「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」との見解を公表している。

 藤原彰著「南京の日本軍」によると、上海派遣軍が作戦行動の範囲を超えて南京を目指したと指摘。補給は不十分で「徴発という名目」の略奪につながったとした。翌38年、日本軍が傀儡(かいらい)の政府を南京に樹立。大戦を通じて重要都市だった。

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