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東部軍女子通信隊の記憶
乙女たちの戦争(下)隊友の慰霊…最後の一兵「がんばれ」

社会 | 神奈川新聞 | 2018年8月10日(金) 12:33

 けたたましく鳴るベルと、各地の監視所から次々に入る敵機情報を復唱する女子通信隊員らの声で、窓のない室内は騒然となった-。1944年暮れ以降、米軍の爆撃機B29による東京空襲が激しさを増していく。

 元隊員だった外間加津子さん(90)=川崎市麻生区南黒川=は、皇居近くにあった陸軍東部軍司令部内の緊迫した様子を、今でも鮮明に覚えている。

 「数機や数十機ではなく、数百機で飛来するから監視所からの情報も大混乱でした。飛行方向なんて分からず、途中で敵機情報が消えることもあって、もうメチャクチャ。上官から『ちゃんと確認しろ』と怒鳴られても、情報台の入力が全く追いつかなかった」

女子通信隊の集合写真(外間さん提供)

 敵機の姿が消えるまで、極度の緊張状態が続いた。「勤務の6時間はトイレにもいけず、水1杯も飲めませんでした」

 米軍は1945年3月から、8千メートル以上の高度から軍事施設や工場などを狙う従来の作戦を一変させ、2千メートル程度の低空から大編隊で侵入し、夜間に無差別爆撃を行うようになった。低空での侵入は高度で入るより、日本側のレーダーに探知されにくかったという。

 日本の防空技術の脆弱(ぜいじゃく)さは明らかだった。懸命に情報を取り次いだ隊員の奮闘もむなしく、空襲の被害は広がるばかりだった。

 「もう日本は勝つわけがない」

 外間さんもいつしか、そう思うようになっていた。

 ■  ■

 「私自身は猛火を逃げ惑うような怖い思いをしたことがないんです」。外間さんはこう恐縮する。

 だがそれは、東京や神奈川の町に焼夷(しょうい)弾が降り注いだ時間帯には、司令部内で任務に忙殺されていたからだ。疲れ切った勤務明けに司令部の建物の外に出て、焼け野原となった町で見た凄惨(せいさん)な光景は、それでも脳裏に刻まれている。

 「麻布の家に帰る途中に亡くなっている方々の横を歩いた。抱き合ったまま焼かれてしまった親子らしき2人もいた。全身真っ黒で炭の人形のようだった。でも当時は悲しいとか、そんな気持ちはなかった気がします。感情がまひしていたのかもしれません」

 地方出身の隊員は娘を心配する親が引き取りに来て、隊の出入りが激しくなっていた。3600人以上が犠牲となった45年5月25日深夜の「山の手大空襲」では赤坂付近にあった1950部隊本部も燃え、多くの隊員らが命を落とした。

 その3カ月後、外間さんは玉音放送で敗戦を知った。仲間の隊員と皇居前の宮城広場に走り、泣いた。「戦争に負けたんだという寂しさが込み上げてきました」

 だが、悲しみに浸る暇はなかった。「米軍が来る前に男の格好をして逃げろ」と言われ、追われるように叔父のいる山梨県に向かった。外間さんの任務は終戦の混乱の中で幕を閉じた。

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1950部隊の慰霊碑に参拝する外間さん=東京都港区赤坂の圓通寺

 夏のような日差しが照りつけた今年5月25日。東京・赤坂のTBS本社裏にある圓通寺の境内に、外間さんの姿があった。

 その日は、女子通信隊を含む東部1950部隊の元隊員でつくる「さつき会」が毎年続けてきた慰霊祭だった。だが、戦争で犠牲となった仲間を供養するために建立された慰霊碑の前で手を合わせる元隊員は外間さん、ただ1人だった。

 かつて100人以上が参列した元隊員は鬼籍に入ったり、衰えたりして姿を見せなくなっていた。たった1人、慰霊を続けるその胸の内には、ある女性の言葉が去来していた。

 その女性とは、千葉県に暮らし、元隊員のまとめ役を果たした山口竹尾さんである。戦後に外間さんの所在を探し当て、慰霊祭参加のきっかけをつくってくれた。2015年12月に年賀状を投函(とうかん)した直後に倒れ、息を引き取った。

 「最後の一兵がんばれ」-。亡くなった後に外間さんの手元に届いた年賀状には、その言葉とともに慰霊祭を続けていく役割を外間さんに託す思いがつづられていた。

 「私も年齢が年齢ですが、今年も山口さんの遺言を果たすことができて良かったです。いらっしゃっていない元隊員や多くの方々の協力があって実現できました」。慰霊祭を終えた外間さんはとても穏やかな表情だった。

 一緒に参列した地域史研究家の西田秀子さんは「私がお会いした女子隊員の皆さんは、どなたも仕事に使命感と誇りを持っていることが印象的でした」と話し、女性史研究の視点からこうも指摘した。

 「ただ、若い乙女たちが戦争の真っただ中に放り込まれ、極度の緊張を強いられる軍務を担わされた事実はしっかり残さなければいけないと思っています」

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 〈昭和、昭和、昭和の子供よ〉で始まる「昭和の子供」(久保田宵二作詞、佐々木英作曲)は、外間さんら昭和一ケタ世代にはなじみ深い歌だ。〈僕たちは大きな望み、明るい心、空、空、空なら日本晴れ〉。大正が終わり、新しい元号になった喜びが音階と歌詞にあふれている。

 「幼い時に歌った覚えがあります。昭和になって生まれた私たちは歌詞の通り、良い時代になると信じていましたが、きっとひどい戦争の時代を生きたんでしょうね。戦後になっても後遺症や家族を亡くした苦しみを抱え続けた方もいた」。そう語る外間さんは続けた。

 「戦時中、私たちは提灯(ちょうちん)行列をして『日本軍が勝った、勝った』とお祭り騒ぎだったわけですが、国は戦争の真実を伏せていたわけで本当にひどい話です。一億玉砕なんてところまで行き着かないと戦争は止められなかったのでしょうか」

 戦後、小中学校で体育教師を務め、現在もかくしゃくとし、フラダンスやフォークダンスの講師をしている。来春には平成が終わる。外間さんは次代に戦争や部隊のことを語り継ぐ必要性を感じている。

 「日本をどうしていくのかは若い方々の責任です。平和が当たり前にあると思わず、命や自然を大切にする社会をしっかりつくることが大切だと思います。平成の後が明るい時代になることを願っています」

 
 

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