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東部軍女子通信隊の記憶
乙女たちの戦争(上)もう授業はない…「帝都防空」の青春

社会 | 神奈川新聞 | 2018年8月9日(木) 11:42

 太平洋戦争中、旧日本陸軍に女性だけで編成された唯一の部隊があった。「女子通信隊」。東京・竹橋に置かれた陸軍東部軍司令部で、空襲警報の基になる米軍機の情報を入力する任務を担った。だが軍事機密を扱ったが故に、記録は残されず、その実態はあまり知られていない。戦後70年余、慰霊祭に参列する元隊員は一人のみになった。「最後の一兵」はいま、仲間とともに帝都防空にささげた青春を、後世に語り継ぐ必要性を改めて感じている。


監視所から入る敵機情報を情報台を使って入力する女子通信隊員

 「もう授業はできません。皆さんもお国のために頑張りなさい」。1943年春、外間加津子さん(90)=川崎市麻生区南黒川=は通っていた東京都港区の女学校でそう告げられた。4年生に進級する16歳の時だった。

 日本海軍によるハワイの真珠湾攻撃(41年12月8日)を機に、太平洋戦争の火ぶたは切られていた。戦地に出征する人が増え、国内では男子の数が不足。軍需産業などに学生や生徒を動員する動きが強まっていた。

 「大好きだった教師や友人と別れるのはとても寂しかった。でも、『女も国のために働かなければ』とも思っていました」

 そんな時、目に飛び込んできたのは、英国の女子部隊をモデルに前年の42年12月に発足した女子通信隊の募集告知。女学校卒業程度の学力がある25歳以下の独身者が対象だった。

 迷わず応募し、厳しい試験と身体検査を経て入隊した。

国の女子部隊をモデルに発足した女子通信隊(外間さん提供)

 「軍隊に入るという意識はなかった。とにかく働く場所があって良かったと思った。制服もすてきでしたしね」。カーキ色のツーピース、編み上げ靴、帽子という洗練された制服姿の写真は、乙女たちの憧れの的だった。生け花や茶道も習えるなどの、うたい文句も踊っていたという。

 「厳しい時代に大家族を懸命に支えていた父親も『おまえは偉い』と喜んでくれて、うれしかった」

      ■  ■

 「東部1950部隊新高隊第3小隊第5班 相澤(旧姓)加津子」。それが外間さんに与えられた軍属としての身分証だった。第1から第4まである小隊は約100人で構成され、各班で組まれていた。

 入隊後、まず軍隊の規律をたたき込まれた。屋内外で軍事教練、通信、救急法などの教育を受けた。点呼で声が小さいと叱られ、敬礼などの団体訓練も厳しく繰り返された。

 だが外間さんは苦痛に感じなかった。「バレーボールなど団体スポーツで厳しく鍛えていたので、軍隊式の訓練も苦にならなかった。むしろ規律正しいところが性に合っていた」。約3カ月の教育期間を終え、実務に着いた。

 陸軍東部軍司令部は皇居に近く、今の東京国立近代美術館工芸館付近にあった。鉄筋コンクリート2階建ての耐弾構造で、地下に情報室、作戦室、警報室があった。分厚い扉と壁で外部と隔てられ、無数の電話線がひかれた窓のない空間。そこが外間さんたちの“戦地”になった。

元女子通信隊の外間加津子さん=川崎市麻生区

 女子通信隊を含む東部1950部隊の活動は、軍事機密を扱った組織のため、記録が残されておらず、その実態はあまり知られていない。

 旧日本軍の防空システムに詳しい元防衛研究所研究員の服部雅徳さんは、女子通信隊について「彼女たちの情報がなければ、帝都防空の作戦実行に際しても、何一つ動かなかった。命の危険を顧みず、全身全霊で防空に尽くしてくれた事実はもっと知られていい」と強調する。

 陸軍東部軍は関東地方周辺が主な管轄区域だった。女子通信隊は八丈島や房総半島、伊豆半島など各地の監視所の目視や電波警戒機(レーダー)で確認した情報の入力を担当した。

 戦闘機の発見時刻や発見場所、飛行方向、敵味方の別…。有線電話や無線通信で報告される情報を、50台ほどが並ぶ情報台の前に座った外間さんら隊員が、復唱した上で入力した。

 情報が入力されると、作戦室前方の情報地図盤に赤い豆ランプが点灯した。参謀将校、参謀長、軍司令官が集まり、その情報を基に、高射砲部隊の射撃準備や戦闘機発進・空中待機位置などを指令。空襲警報も発令するよう指示し、待機していた放送協会(現NHK)のアナウンサーがラジオ放送で流した。まさに、軍の戦略の根幹を請け負っていた。

 「昼夜関係ない24時間勤務でした。6時間の勤務が終わると、6時間の待機。再び6時間の勤務と6時間の待機。帰れるのはその後でした」。空襲警報が発令されれば、どんなに危険でも全隊員が司令部に集合しなければならなかった。

 地方から入隊した隊員は寮に入ったが、外間さんは実家の港区麻布から通った。

 「帰る途中に空襲警報が出て戻ったり。麻布と皇居の間を行ったり来たりすることも多かった」。最年少格だったが、懸命に任務に励んだ。

 物資不足の当時、めったに口にできなかったあんパンが待機中に配られた。「これがおいしくてね。包んで家族に持って帰ったりもした。でも、毎日くたくたでした」。国民を救う任務に誇りを感じつつ、一抹の不安もあった。

 「上官の人たちは『日本は勝っている』と言う。じゃあなぜ、敵機が本土に来るのか、なぜ自分たちのような任務が必要なのか。日本がどうなるか、先行きに不安は感じました」

 外間さんが当初から抱いていた不安は、現実のものになる。44年夏、米軍がマリアナ諸島攻略作戦で日本軍を圧倒しサイパン島やテニアン島を手中にすると、日本全土が爆撃機B29の往復飛行圏内に入った。関東地方に頻繁に襲来するようになり、女子通信隊の任務は熾烈(しれつ)さを増していった。

 
 

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