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あの時 わたしは
縛られ、打たれる日本兵 終戦の奉天、森田拳次さんの記憶

社会 | 神奈川新聞 | 2015年9月15日(火) 16:24

漫画家 森田拳次さん(76)

 生後3カ月で両親と満州国(現・中国東北部)の奉天(現・瀋陽)に渡りました。父は日本人1人、現地住民3~4人を使用人として雇い、軍隊向けの衣類店を経営していました。

 6歳で終戦の日を迎えました。昼前、大事な話があるので集まれと言われ、近所の集会所に行きました。父を含め男性は召集されていて、女性と子どもばかり約30人ほどが、ラジオから流れてくる玉音放送を聞きました。私には何を言っているのか聞き取れず、大人たちが戦争に負けたと教えてくれました。

 そのころ、子どもたちの間では、マッカーサーがパラシュートで奉天に降りてくるというデマが広がっていて、敗戦が悔しかった私は「おれが撃ち落としてやる」と、パチンコを手に持って飛び出しました。

 不気味に静まりかえった日本人街を通り抜け、奉天の大通りに向かうと、中国人が大勢集まり、人垣ができています。

 隙間からのぞくと、大通りをゆっくり進む馬車の荷台に、縛られ血だらけの日本兵が数人乗せられ、むちや棒で打たれていました。むちがしなるたび、中国人からどよめきと拍手が起こり、あたりをゆるがせていました。

1945年8月15日、奉天(現・瀋陽)の大通りを引き回される日本兵(森田拳次さん画)

 子ども心にも、日本人が中国人の土地を奪い、虐げてきたのは分かっていました。6歳の子どもにも分かるほど、満州国の五族協和のスローガンは底の浅いものでした。中国人の怒りは理解でき、ぼうぜんとその光景を見続けていました。結局、マッカーサーが降りてくるわけもなく、とぼとぼと家に帰りました。

 その後、近所周辺に高い板を張り巡らし、とりでのようにして引き揚げを待ちました。ソ連の捕虜になっていた父も、シベリア移送中の列車から脱走して戻って来て、1946年夏、奉天生まれの弟と家族4人で、日本に引き揚げることができました。

 日本人を殺すなと呼び掛けたり、助けてくれたりする中国人もいて、多くの日本人が中国人のおおらかさに救われたと感じています。今も中国には原罪意識があります。

 赤塚不二夫、ちばてつやらと作った「中国引揚げ漫画家の会」の漫画集、そこから広がった「日本漫画事務局八月十五日の会」の体験集「私の八月十五日1、2」(今人舎)などで、漫画を通じて日中友好、平和を訴える活動を続けています。

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