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戦争のある人生
二つの疎開(2)「建物疎開」の国策、わが家は壊された

社会 | 神奈川新聞 | 2015年12月15日(火) 10:52

 「野村征子旧蔵資料」と名付けられた戦中の文書類が、神奈川県立公文書館(横浜市旭区)に保存されている。「建物疎開」の政策で自宅を追われた一家に、当時の行政が発行した一連の書類だ。

 空襲の類焼を防ぐため住宅密集地の家屋を強制的に解体し「防空空地」を設ける政策が当時、大都市で進められていた。人口密度を小さくする狙いは学童疎開と同じで、むしろ「疎開」の主要事業だった。

 寄贈した野村征子さん(72)=同市保土ケ谷区=は当時1歳半、戦時の記憶はない。「防空壕(ごう)でも泣かない子だったと母から聞きましたけれど、覚えていないんです」

 しかし資料をたどれば、国策に翻弄(ほんろう)された家族の姿が浮かび上がってくる。

野村さんに交付された「補償料支払通知」。「建物強制疎開ニ伴フ補償料下記ノ通リ…」とあり金額欄には385(円)。初任給が数十円の時代(県立公文書館所蔵)

 同市中区長者町6丁目の自宅でワイシャツ店を営んでいた野村家が建物疎開の対象となったのは、1945年3月。父純三さんは征子さんが生まれる直前に戦地へ赴き、母と祖母との3人暮らしだった。

 資料の一つ、はがき大のざら紙に手書きされた「補償料支払通知」には、立ち退きに際して「一般補償費385(円)」を4月25日に支払うとある。

 父が育てたシャツ店は「空地番号81、建物番号5」と素っ気なく記号で表されていた。行政は法令にのっとり、粛々と住民を追い出す手続きを遂行していたのだった。

 一家は父が以前世話になった南区の生糸商宅に身を寄せたが、1カ月余り後の5月29日、横浜大空襲に遭遇。防空壕に逃れ無事だったものの焼け出され、祖母の故郷、北海道北部の士別に再度移った。

 転居の際、乗車券の手配や荷物の発送などに必要だった「罹災(りさい)証明書」には、市長名で「罹災地住所 南區井土ケ谷下町…右罹災シタルコトヲ證明ス」と記されている。

 北海道に逃れた母は、戦地の父にはがきを出した。

 「私達三人はお蔭様で無事 只今表記の様に北海道へ来て居ります(略)懐しい横浜を去る事は残念でしたが長者町は建物疎開になりましたので思い切ってお店もやめてこちらへ来ました」。父はそのはがきを肌身離さず持ち帰り、今は旧蔵資料の一つとして同館に収められている。

 1946年の初め、無事復員した父が、3人の暮らす北海道へやって来た。

 「私は覚えていないんですが、父が『ただいま』と玄関の戸をガラガラと開けたら、私が『どこのおじちゃん?』と聞いたんだそうです」と野村さんは話す。初めての父子の対面は、父を悲しませた。

 「父はわが子が飛びついてくるのを期待していたんでしょう。それなのに…」。それが戦争だった。

 県立公文書館で勤務経験のある県立高校教諭の中根賢は、同館の「野村征子旧蔵資料」を基に論文「神奈川県下の建物疎開」(昭和館紀要「昭和のくらし研究」11号)を発表した。

 建物疎開の根拠となったのは1937年制定の防空法(46年廃止)。軍事施設や軍需工場、鉄道など戦争遂行のための重要施設の周囲にある家屋が、強制的に取り壊された。その数は44年2月から敗戦までの間、全国61万戸、県内では横浜、川崎、横須賀など7市で3万5349戸に上り、空襲による焼失戸数の4分の1に匹敵した。「焼け野原」になる前に、相当数の住宅が人為的に更地にされていた。

 同論文は「野村征子旧蔵資料」と県の公文書「移転費調書」とを照合し、一般補償費385円のほか移転費250円も支給されたことを突き止めた。

家を追われた父、戦地でも職人だった

 生家を追われた野村さんの父、純三さんは1943年秋、29歳で海軍に召集された。

 征子さんは母親のおなかにいた。生きて帰れるとは思わなかったのだろう、遺書と遺髪、それに爪を妻に残した。遺書には出征後に生まれるわが子のために「男なら征一、女なら征子」と記されていた。

 出立の朝、自身のワイシャツ店の前で撮影した父の写真を、野村さんは今も大切にしまってある。店の看板には屋号よりも大きく「今日も決戦 明日も決戦」の文字。「看板を掲げる時には標語を入れなければならなかったそうです」と野村さんは説明する。

出征前の父純三さん

 横須賀第1海兵団に入った父は、当時では珍しく運転免許を所持していたため重用された。上官に付いて横浜まで足を延ばし、任務中ながら店に立ち寄ることもあった。

 そんなとき母は、食糧難で貴重品だった砂糖をおごり、おはぎを作ってもてなした。父は忘れたふりをして手帳を置いて出た。「心配するな」とだけ走り書きしてあった。

 翌1944年2月、父は西太平洋のトラック諸島へ赴いた。同年7月にサイパンが米軍の手に落ちると補給船は途絶え、弾薬も食料も尽きた。「敵機が来ても身を隠すしかなかったそうです。草はすぐに食べ尽くし、木の根っこを掘って食べたと話していました」

 栄養失調になった父は戦列を離れ、縫製の技能を生かして戦友のためにシーツで下着を作った。お返しにと、はんこ職人だった戦友はヤシの木で印章を彫ってくれたという。「生前、父は大事にしていました。今もあります、70年前のヤシのはんこが」

 復員は1946年1月。横浜・長者町の店は建物疎開で跡形もなかったが、貴重な財産が空襲を免れ残されていた。戦地へ赴く前、父はありったけの布をシャツや下着に仕立てて、倉庫に収めていたのだ。

 野村さんは父の気持ちを推し量る。「お金の価値は変わるから、物で持っていた方がいいと覚悟して作ったんでしょう」。生きて帰れない、ならば妻子に少しでも生活の糧を-と。実際、物不足と急激なインフレに悩まされた終戦直後、一家はそのシャツを元手に商売を再開した。

 「母は店に出入りしていた米軍の兵隊さんと物々交換して、たばこやバター、チョコレートを入手していました」

 生活が安定すると、新しい物好きだった父は「カポネが乗るような黒いアメリカ車」を中古で買い、征子さんを乗せてドライブした。父は1999年に82歳で世を去るまで、現役のシャツ職人だったという。

 県立高校教諭、中根賢の論文「神奈川県下の建物疎開」(昭和館紀要「昭和のくらし研究」11号)は、空襲による類焼を防ぐための建物疎開にあたり、県職員が「除却指定」の紙をいや応なく対象建物に貼り付け、解体の際は各地域の大工や建築職人が動員された強制的な実態を明らかにした。

 建物疎開をめぐって同論文は、一定の類焼防止効果があり、また戦後の都市計画の前提にもなった、と説明する。横浜市磯子区の「疎開道路」は当時の名残だ。一方で「住み慣れた家を追われ、見慣れた街を壊され、生活や仕事の場を失った戦時中の記憶」を継承する必要性をより強調している。

 
 

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