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戦争のある人生
二つの疎開(1)母に会えない「皇国の子」

社会 | 神奈川新聞 | 2015年12月14日(月) 10:00

 母の死に目に会えなかった。

 「いまだに、いまだに悔しい。心残りです」。横浜市西区の長谷川径弘さん(81)は70年前に別れた母久江さんを思う。

 命日の1945年6月9日、小学5年生だった長谷川さんは、学童疎開で箱根の山あいの旅館にいた。戸部国民学校の4~6年生、50人ほどが集団生活を送っていた。

 「お話があるから座りなさい、と」。一緒に疎開していた一つ下の妹と2人で、児童を世話する保母の前にかしこまった。

 「保母さんはメモを持っていて、それが戒名だったんですね。ほうけたというのかな、気が抜けたというのかな」

 30代半ばの若さ。体は弱くなかったが末の妹を出産した直後、5月29日の横浜大空襲で家を焼かれ、衰弱したらしかった。「後を頼みますよ」と言い残した母の遺体は、兄がリヤカーで墓地へ運んで土葬した、と後に聞いた。

子ども思いだったという母久江さん(右端)。前列左端が径弘さん(長谷川径弘さん提供)

 子ども思いの母は頻繁に手紙をくれたし、物のない中でハーモニカや理科の解剖道具を送ってくれもした。箱根まで会いに来ることさえ何度かあった。幼い弟を背負い、混雑した汽車に乗り、食べ物を差し入れ、1時間ほどの滞在でとって返した。「大変な苦労だったと思いますよ」

 長谷川さんが疎開したのは44年の初秋から45年秋までの1年間。最初の半年は兄と一緒で、春に兄が卒業すると代わりに妹がやって来た。その妹を、上級生はいじめた。柳ごうりの中に押し込め、押し入れの上から落とした。

 「腹がすいてしょうがなかった」。肥料や飼料にする大豆カスを混ぜたご飯、池で捕ったカエル…。「畑のトウモロコシは生でかじったけれど、ミカンの皮だけは苦くて食べられませんでした」

 空腹でも、貴重な労働力として動員された。「松の切り株に縄を架けて運びました。重かった…」。松の根から油を取り出し戦闘機の燃料にする計画が、経済封鎖で石油が枯渇していた当時の日本にあった。「前傾姿勢でずるずる、ずるずると縄を引っ張って」。その時のあざが、今も長谷川さんの右肩に残る。

 「皇国」の教育が行われていた。朝晩には皆で宮城(皇居)の方角を向いて正座し、皇后の和歌に節を付けて歌った。「次の世を背負うべき身ぞたくましく正しく伸びよ里に移りて」。集団疎開の「少国民」に向けた歌だった。

 敗戦後、1年ぶりに戻った横浜は空襲に焼かれ「何もなかった」。焼失した生家から少し離れた父の勤め先の社宅にたどり着くと、幼い弟が空き缶で作った竹馬ならぬ缶馬を手に、悄然(しょうぜん)と立っていた。

 「その時実感したんです、もう母親がいないんだって」

 逸見勝亮著「学童集団疎開史-子どもたちの戦闘配置」によると、1944年9月25日時点での神奈川の学童疎開は横浜、川崎、横須賀3市の3万8438人。疎開先は県内の郊外だった。同時期の東京は約23万4千人で遠くは宮城や富山へも疎開。名古屋、大阪なども含めた全国では約41万人に上った。衛生状態の悪さから伝染病や性病の集団発生もあった。

 同書は、40年の時点で陸軍が空襲を予測しながら当初は疎開を否定したと指摘。「避難は我が国防空の敗北」との理由だった。しかし戦況が悪化すると「老幼婦女子」は「防空の足手まとい」とされ、学童疎開が本格化した。「次代の戦力」を守る「学童の戦闘配置」という名目だった。

 
 

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