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シベリア抑留 73年
望郷の音色(2)「音楽家として働いてもらう」仲間見送り

社会 | 神奈川新聞 | 2018年8月24日(金) 02:00

 シベリア抑留生活が続く中、新関省二さん(92)=横浜市青葉区=は上官に請われ、演奏を始めた。かつて披露し、その腕を見込まれたためだった。

 酷寒の地で強いられる飢えと重労働。死と隣り合わせの先の見えない日々に、抑留者は疲弊しきっていた。「黙々と着替えて炭鉱に向かう。生気のない仲間の姿を見かねたのでしょう」。新関さんが推し量る。

 やがて、収容所内で楽劇団を結成した。楽器はアコーディオンのほか、ギターやドラム、尺八など5、6種類。寸劇も交え、週1回ほど公演した。舞台は元大工たちがこしらえた。

 「演奏したのは、みんなが心を一つにして歌える日本の流行歌ばかり。楽譜はなかったが、殺風景な生活の中で唯一の楽しみでした」。身体への負担も顧みず、寝る間を惜しんで練習に励んだ。

抑留犠牲者追悼の集いで献花する抑留体験者や遺族ら=東京都千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑

 抑留生活が3年ほどたった1948年夏、新関さんは帰国メンバーに名を連ねた。再び列車に揺られ、日本への引き揚げ船の出港地ナホトカに到着した。

 出港を待つ船を前に、ソ連兵が帰国者の名前を読み上げる。しかし、「ニ」の中に「ニイゼキ」はない。

 「新関、どうした!」「早く来い!」

 仲間たちが船上から声を張り上げるが、最後まで名前を呼ばれることはなかった。

 問えば、ソ連兵は「おまえは音楽家として働いてもらう」と言い放った。

 生きて祖国の土を踏みしめるという希望は、またも目の前ですり抜けた。心を癒やしてくれた音楽が一転、帰国の足かせとなった。

 遠ざかる仲間たちを見送りながら、涙がこぼれた。「なんで自分だけ帰れないんだ」。宿舎に戻ると、孤独がさらに深まる。家族からの手紙を抱きしめ、布団にくるまり一人泣いた。

 留め置かれたナホトカでは、抑留者に共産主義を教えこむ指導者グループ「アクティブ」の一員となるよう命じられた。当時、ソ連は音楽を、共産主義を植え付ける重要な手段とみなしていた。思想教育を受け、帰国直前の抑留者に歌唱を指導し、引き揚げ船を見送りながら闘争歌を演奏した。

 帰国決定はナホトカ到着から約1年後の1949年11月。「見送りを重ねたからか、引き揚げ船に乗っても何の感動もなかった」

 むしろ、帰国後の困難が頭をもたげた。アクティブと警戒され、航海中は一般の抑留者と別室で隔離された。京都・舞鶴港に到着時も監視は続き、別タラップを下り祖国の地を踏んだ。あれほど焦がれた瞬間だったが、感慨はなかった。

 帰国後、アコーディオンは抑留者中心の楽団に譲り渡し、共産主義からも離れた。演奏から遠ざかったが、やがて就職先の慰安旅行で奏でるようになり、今では地域の老人会などで披露する。「いま演奏しても、ラーゲリ(収容所)でみんなと歌ったことを思い出しますよ」。過酷な抑留生活だったからこそ、仲間と交わした安らぎの記憶は鮮明に刻まれている。

 一方、長くシベリア抑留を、父と兄の他に話すことはなかった。「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず」と指導された世代。「捕虜として帰ることをどう思われるのか不安だった」。帰国後、「アカ」とレッテルを貼られ、就職が難しくなることもあった。

 それでもいまは、抑留生活の証言をいとわない。

 「私たちの抑留生活は戦後に始まった。国のために戦ったのに多くの仲間が不当な抑留で命を落とした。その事実、その無念を知ってほしい」

 抑留の開始から73年となった8月23日、都内で開かれた犠牲者の追悼コンサート。新関さんは遺族ら約70人を前に、アコーディオンを奏でた。曲は望郷の念を歌った「誰(たれ)か故郷を想(おも)わざる」だった。

 
 

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