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あの時 わたしは
飢えた戦災孤児に囲まれ、立ち去った…70年後も悔いる

社会 | 神奈川新聞 | 2015年8月22日(土) 16:04

佐藤政利さん(86)

 愛川町で生まれ育ち、小学校の高等科を出て、14歳で厚木基地の近くにあった高座海軍工廠(こうしょう)に入りました。1944年の3月末のことです。

 工廠では米軍の爆撃機B29を迎撃する戦闘機「雷電」を造りました。私の仕事は部品の調達。鉄道に乗り、関東各地の工場を訪ね、部品を入手するのです。

 当時は愛川の中津に陸軍の飛行場があり、もともと飛行機に憧れがありました。海軍の予科練を目指しましたが、身長と体重が規定に満たず、工廠に入りました。肉もだめ、ネギもニンジンもだめ。好き嫌いが多くて、体が小さかったのです。

 ところが、工廠に入ったら何でも駆け足。食べないとやっていけないから、何でも食べるようになる。好き嫌いはなくなり、終戦までに身長は10センチ伸び、体重も5キロは増えました。

 玉音放送は工廠の地下壕(ごう)で聞きました。「明日からどうやって生きていこう」と不安になったことを覚えています。やがて、満州(中国東北部)から親族が命からがら引き揚げてきました。いとこはシベリアに抑留され、筆舌に尽くしがたい苛烈な経験をしたそうです。

 戦後70年になりますが、今も悔やまれる出来事があります。

 工廠の出張では、にぎり飯を二つ持たせてもらいます。終戦になる少し前、横浜駅で食べようと取り出すと、5、6人の戦災孤児に囲まれました。横浜空襲で焼け出されていたのでしょう。腹をすかせ、目だけがぎらぎらしている。

 分けてやりたいが、私も食べなければならない。にぎり飯をしまい、立ち去りました。

 70年たつのに、今も思います。なぜ、あのとき、分けてやることができなかったのか。戦争で人を思いやる人間性が失われていました。戦争はやってはいけません。

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