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引き揚げの貨車、尽きた食糧 餓死者は次々、川へ水葬に

社会 | 神奈川新聞 | 2015年8月21日(金) 16:00

鈴木有子さん(84)

 1937年、小学校2年生のときに満州(現中国東北部)に渡りました。45年8月15日、女学校2年生だった私は、関東軍の通信要員として無線をたたいていました。

 その日の昼前、放送があるからすぐ帰るよう中隊長に促されて帰宅すると、家のラジオの前に大勢の人が集まっていました。音声はよく聞き取れませんでしたが「日本は負けたのだ!」と泣きだす人がいたのを覚えています。

 終戦後はソ連軍の進駐でしばらく家から一歩も出られない状態でした。9月のまだ暑い日、11人の大所帯だったわが家は、必要最低限の食料と衣類をリュックに詰め、両手いっぱいに荷物を持って家を出ました。

 大勢の日本人が駅に集まり、屋根のない貨物列車に乗り込みました。

 数日すると食料が尽き、餓死した赤ん坊の遺体を抱いた女性もいました。松花江という大きな川の鉄橋を渡るとき、「水葬にしろ」という叫び声とともに遺体が次々と川に投げ込まれた光景が、今でも目に焼き付いています。

 列車は新京という駅で止まり、私たちはその地で約1年暮らしました。他の日本人は空き家となった陸軍兵舎に収容されましたが、私たちはすでに帰国した友人が住んでいた家に落ち着くことができました。

 陸軍兵舎に収容された人たちの中には、寒さや飢えで亡くなった人が大勢いました。遺体を乗せた大八車が何台も家の前を通り、荷台から大根のような白い足が見えていました。

 1946年10月、貨物船に乗ってようやく日本に上陸し、岡山の親戚を訪ねました。帰国して初めて食べたミョウガの味は忘れることができません。

 今は、住んでいる逗子市の小学校で子どもたちに引き揚げの体験を話すこともあります。皆真剣に話を聞いてくれます。どんなことがあっても戦争はしてはいけない。

 
 

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