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竹やり、手りゅう弾…終戦後も続いた学徒動員の兵器づくり

社会 | 神奈川新聞 | 2015年8月20日(木) 15:48

山口勝さん(84)

 逗子開成中学の2年生になった1945(昭和20)年4月から学徒動員で第一海軍技術廠(しょう)(旧海軍航空技術廠)の支廠(横浜市金沢区)へ通いました。学校に行かず、毎日支廠内の工場へ通って爆撃照準器などの光学兵器を生産する日々でした。そのころは光栄なことだと思っていました。

 通常朝8時半から午後5時まででしたが、夜まで残業することもありました。海軍直轄工場だったので、昼食は出ました。兵器が完成すると、「これが戦争で使われるんだ」とうれしい気持ちになりました。

 8月15日は「天皇陛下のお言葉がある」と、支廠で働く何千人もの人が屋外の1カ所に集められました。整列してスピーカーから流れるラジオの音に耳を傾けましたが、何を言っているか聞き取れませんでした。「神様はこんな声なんだな」と思いました。

 解散して工場まで戻り、子ども同士で「天皇陛下は何て言ったんだ」「もっと頑張れって言ったんだよ」などと会話しました。戦争に負けたなんて思ってなかったのです。

 そのうち、周囲の大人から負けたという話が入ってきました。それでも、「まだ神風が吹いていないから負けちゃいないよ」と思っていました。教育は怖い。敗戦をうすうすと感じていた大人もいたでしょうが、子どもは学校で教えられた範囲でしか情報が頭に入ってこない。

 その日のうちに、図面と極秘文書を集めろと命令がありました。「日本の光学兵器は世界で最も優秀だから、敵に渡してはいけない」と言われ、リヤカーに積んで焼却場へ持って行きました。続く命令は「出来上がった兵器を壊せ」というものでした。われわれが作っていた爆撃照準器を鉄のハンマーでたたき壊し、溶鉱炉で溶かしました。一生懸命つくったものを壊すのだから、何ともいえない思いでした。翌日以降は、竹やりや手りゅう弾の製作も命じられました。

 8月中か、せいぜい9月早々には学徒動員が解除されました。家族は母の実家がある三崎町(現・三浦市)に移りましたが、私だけは学校に通いやすいよう横浜市金沢区の父の知人宅で預かってもらいました。

 ところが、そこは闇取引の巣窟でした。鉄工場の社長や音楽家、関東軍帰りの人などいろんな大人が出入りし、物々交換をしていました。一緒に行動していると食べ物には苦労しないし、小遣い稼ぎもできる。それが面白くて、戦後7カ月間は学校に通いませんでした。

 翌年3月末に学校へ行くと、進級していたようでした。闇屋でもうけたお金で買った自転車で学校まで通うようになりました。

 (三浦市の)チャッキラコ・三崎昭和会館で毎夏、戦争の関連物品や資料を集めた展示を行っています。子どもたちに同じ轍(てつ)を踏ませてはいけません。

 
 

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