崎山稔さん(75)
戦闘が激化する前のサイパンは、静かな南の島だったと思います。「思います」というのは、ショックもあったせいか、楽しい思い出がすべて消えてしまっているからです。これから話すことは、戦闘が始まってからの私の断片的な記憶と、後に親戚から聞いた話をつなぎ合わせたものです。
両親は沖縄出身で、母方の親戚とサイパンに移住しました。私はサイパン生まれで、5人きょうだいの真ん中、当時4歳でした。
1944年6月11日、島を取り囲んだ米軍の艦砲射撃が始まりました。家族はサイパン中央にある最高峰のタポチョ山に向かって避難したと聞いています。
18日のことです。最初に兄か姉が亡くなりました。遺体を埋めようという時にまた艦砲射撃がありました。父、姉か兄、弟の3人が犠牲になりました。私も腕と頭にけがをしました。
その後は、母と乳飲み子の末弟の3人で洞窟を転々としました。北へ、北へ。毎晩、水辺に連れていかれ、母が傷を洗ってくれたのを覚えています。
洞窟では軍人も一緒でした。赤ん坊は気をつけろ、軍人に殺されるぞという話が伝わってきました。泣き声で居場所が米兵にばれるからです。
きっと母は迫られたのでしょうね。乳を飲ませながら、生後1カ月の末弟を、手に掛けました。
その後、私は一人で洞窟を飛び出しました。ここにいたら自分も(殺される)と、不安感でいっぱいだったからです。艦砲射撃の下をくぐるように山を駆け下りました。もう死体だらけで、嫌でも踏みます。その感触がね…。
私は今でも軟らかいものが嫌でたまらない。戦後、ナマコだらけの海に入ったことがありますが、それを踏んで以降、海に入れなくなりました。あとは艦砲射撃の音です。帰国後も高い音が駄目で、電車の警笛は怖くて怖くて。
洞窟を出てから私は米軍に保護され、孤児収容所に入れられました。母が来るかもと、いつも収容所の入り口で目をギョロギョロさせていたようです。別の収容所にいた母の妹がそれを聞いて迎えにきましたが、私は感情が抜けてしまったかのように何の反応も示さなかったみたいです。
母も別の収容所にいました。けれども、周囲で乳飲み子が助かっているのを目の当たりにして、大ショックを受けたようです。食べられない、飲めない、気がおかしくなるというのかな。身も心もぼろぼろになり、やがて亡くなりました。
戦後は逗子に引き揚げ、しばらくして叔母の養子になりました。その時に姓が高志保から崎山に変わりました。
サイパンには何度か行っていますが、死ぬ前にもう一度行きたい。私の古里だし、両親ときょうだいが眠っている所ですから。けじめというと変だが、ちゃんと伝えたい。向こうで会おうとね。
戦場のサイパン、追い詰められた母は乳飲み子を手に掛けた
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[写真番号:888718]
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タポチョ山から眺めたサイパン。戦後初めて崎山さんが訪問した際に撮影した=1983年8月(崎山さん提供) [写真番号:888719]