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戦争のある人生
満鉄の子(1)大陸家族の生活、満ち足りていた日の一変

社会 | 神奈川新聞 | 2015年12月7日(月) 10:50

 開成町に住む元英語教員の井上城司さん(79)の名は、生誕地、中国東北部吉林省の白城という地名から取られた。当時は白城子といった。日本の傀儡(かいらい)国家「満州国」の時代。「下の2文字を取ったのだけれど、城子だと女みたいだから威勢良く司(つかさど)るにしよう、と」。亡父に何度となく聞かされた由来を、井上さんは説明する。4人きょうだいはみな大陸で生まれた。

井上さんが保存している旧満州時代のアルバム

 父は南満州鉄道(満鉄)の鉄道マンだった。白城子では機関区(車両基地)の庶務を担当する内勤に移っていたが、大正の中ごろ15歳で渡満し、すすで真っ黒になって蒸気機関車の清掃、いわゆるカマ磨きから始めた現場たたき上げの人だった。

 「齊々哈爾(チチハル)機関區記念寫眞帖 皇紀二千六百二年」と記されたアルバムを井上さんは大切に持っている。

 皇紀2602年は1942年。金文字や絵が箔(はく)押しされた濃紺の表紙を開くと、機関区長の威厳ある肖像写真に続いて運転、技術、庶務の3人の主任が載っている。庶務主任が39歳の父、久雄さんだ。

 勤務地を息子の名にするほど大陸の輸送を担う仕事に矜持(きょうじ)を抱いていたのだろう、父は財産の一切を没取された戦後の引き揚げの渦中も、この写真帳だけは離さなかった。

楽土の「五族協和」に隠れた差別

 チチハルは北緯47度、冬は零下数十度にまで下がる北辺の大都市。ソ連国境や沿海地方の軍港ウラジオストク、日本航路が出た大連など、各方面への鉄路が交差する鉄道の要衝だった。

 井上さんはそこで幼少期を過ごした。通学した信永在満国民学校には千人もの児童がいたが、中国人の子どもはみられなかった。「五族協和」を掲げた「国」に、画然とした差別があった。「日本人がこの国をつくってやった、という教育がたたき込まれていました」

 生活は恵まれていた。社宅はスチーム暖房と水洗トイレの整った立派な2階建てアパートで「電気も水道もいくらでも来るもんだと思っていました」。食べ物も、購買部の「生計所」に行けば何でも、白米もあった。日本本土が食糧難にあえぎ、空襲に次々襲われていた時期にさえ。

 45年の春か初夏、井上さんは父に連れられ、中学生の兄とともにソ満国境まで旅行した。現在のグリーン車に当たる2等車に悠然と腰掛けた。「大名旅行でした。途中、来賓が泊まるような宿舎でロシア料理を食べました。ソーセージがおいしかった…」

 その国境から同年8月9日、ソ連軍が侵攻した。井上さん一家の生活は一変した。

 満鉄は日露戦争後のポーツマス講和条約に基づき、ロシアが敷設した東清鉄道の一部を日本が獲得する形で1906(明治39)年に開業した。満州事変(31年)後の34年、大連-新京(現長春)間を走り始めた超特急「あじあ」や戦前有数のシンクタンク「満鉄調査部」も知られる。加藤聖文著「満鉄全史-『国策会社』の全貌」によると、37年3月末の時点で関連会社は炭鉱やホテル、新聞社など80社に上った。

 民間会社である一方、線路周辺の「鉄道付属地」での教育や衛生など「国策」を遂行する行政機関でもあった。ロシア・ソ連に接し軍事面でも重要だった。同著は、満鉄のこうした多面的な性格が、軍や外務省、政党など国内外の諸勢力に翻弄(ほんろう)された、と指摘している。

「農をもって国に報いる」

 南満州鉄道(満鉄)社員の子息に生まれ育った井上城司さん=開成町=の親類もまた、満州にゆかりがある。妻幸枝さんの叔母、市川タミ子さん(94)=小田原市=は戦時中に単身渡満し、無償同然で半年間、広大な大陸を耕した。「新聞に載っていた募集記事を見てお父さんにもお母さんにも話さずに県庁へ行って志願したの」

 食糧増産を目的に、農繁期の満州へ青年を派遣する事業が当時行われていた。その名は「満州建設勤労奉仕隊」。県は当時、吉林省懐徳県大楡樹村大泉眼屯に、約300ヘクタールの「在満神奈川県報国農場」を開設していた。

 「兵隊さんと同じようにお宮さんで出陣式をやって、駅まで送ってもらってね」と市川さんは出発の日を思い出す。国策を負った「出陣」だった。集合場所の県庁にそろったのは120人。先遣隊も含め、この年の奉仕隊は10~40代の150人(うち女性70人)に上った。横浜駅から超満員の列車で下関、船で朝鮮半島の釜山に渡り、計4日ほどかけてたどり着いた。

コーリャン畑で汗を流した満州時代の市川タミ子さん。「あれだけの畑を中国人から取っちゃったんだもの、怒ったって無理もないよ」と今振り返る=1944年9月29日(市川さん提供)

 市川さんは満州での生活を事細かにメモした。

 例えば、午前は「起床四時五十分、点呼五時三十分、朝食五時五十分、整列六時三十分、中休三十分、作業止十一時三十分」。点呼では団旗を掲揚し、皆で歌いながら体操した。

 作物はジャガイモ、カボチャ、コーリャン、トウモロコシ、アワ、大豆、マクワウリ、小豆。8ヘクタール余りを11人で耕した。あまり休憩が長いと、双眼鏡で見張っていた指導役に呼び出されて怒られるのだった。

 「向こうの暮らしはきついにはきつかったけれども…」。土は乾いて硬かったが、農耕馬の力を借りれば「何でもなかった」。小豆の脱穀など土の上にじかに並べ、馬にローラーを引かせるときれいに殻がむけた。

 澄んだ空気、時折サーッと通り過ぎる爽やかなスコール。とはいえ、見知らぬ土地に置かれた23歳の娘は「やっぱり、帰りたい思いでいっぱいだった」。

 滞在中、ともに汗を流した2人の男性が病で命を落とした。「農を以(もっ)て国に報ゆるの重き任務を背に…無情の風に誘われて亡き人の数に入り給(たも)ふ」とは終戦の翌年、県内で催された慰霊祭での弔辞だ。

 市川さんが帰国したのは10月下旬。翌45年春に渡満した奉仕隊は農耕のさなか、ソ連軍の侵攻に遭遇した。「私たちの翌年はかわいそうだった…」。市川さんはその中の一人と文通していたが、終戦とともに便りが途絶えた。

 奉仕隊について、白取道博横浜国大教授は、論文「『満州建設勤労奉仕隊』に関する基礎的考察」(北海道大学教育学部紀要80号)で「〈皇国勤労観〉という名辞に象徴される無償の労力提供を称揚する思想」が現れ、「対中国侵略戦争継続への同意の調達」が図られた、と指摘する。

 同論文によると、1939年度から文部省、農林省、拓務省が主導。毎年春から秋にかけて、農業だけでなく飛行場や道路の建設、鉱工業、医療など多くの分野に青年を動員。当初は毎年10万人を目指した。陸軍(関東軍)も政策立案に関与したという。

 
 

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