浜崎重信さん(95)
19歳で陸軍に志願し、歩兵隊の一員として、中国の山東省に出兵しました。昭和15(1940)年1月のことです。
初めての討伐作戦のとき、小隊長から「浜崎、あれを撃て」と命じられました。400メートルほど先を見ると、中国人の女性と子どもが逃げています。どう見ても民間人で「なぜ敵兵でない人間を撃つのか」と疑問に思ったけれど、命令なので撃たないわけにはいきません。少しだけ銃口をそらすと弾は外れ、女性たちはすぐに見えなくなりました。その後の討伐でも、逃げるものは必ず撃つよう命じられました。
中国では、畑から食糧を奪ったり、堤防を壊して洪水を起こし、日本軍に非協力的な集落を壊滅させたりしたこともありました。上官の命令があったからです。
3年10カ月の出兵の後、愛川町の中津にあった飛行場で働き、岐阜の整備学校で終戦を迎えました。「負けたんだな」と思っても、これからのことは考えられませんでした。
自分は、教育勅語で「お国のために」と教えられた軍国少年でした。戦争に疑問を持ったことはありませんでした。
戦後になってようやく、戦争は間違いだったと気づきました。戦争をしないことを誓った憲法ができて、ああ、これで銃を持って人を殺すことはなくなった、よかったなと思いました。
今、憲法や教育について見直しを求める動きがあります。再び戦争になることがないよう、反対の声を維持させていくことが大事です。