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戦争のある人生
海底特攻「伏龍」(2)「行くのですね」灯火管制下の壮行

社会 | 神奈川新聞 | 2015年12月4日(金) 16:25

 「特攻要員である、と言われた途端、頭のてっぺんからつま先まで電流が突っ走るほど感激しました」。人間機雷「伏龍」の元隊員、門奈鷹一郎さん=横須賀市、2014年9月に85歳で死去=はそう振り返った。

 告げられたのは1944年6月、三重海軍航空隊の一員として三重県・志摩半島で陣地造りに従事していたさなか。

 深く切れ込んだリアス式海岸が天然の要塞(ようさい)をなす湾の一つにある渡鹿野島に、30~40人の体格のよい練習生が集められた。隊の本部が置かれた割烹(かっぽう)旅館の大広間だった。

 既に戦局の悪化は末端にまで伝わり、「神州不滅」を信じて入隊した門奈さんも、この頃には負けを予想していた。それでもなお「感激」した。

 「ここまで追い詰められたら日本のどこにいても犬死にするだろう。特攻隊員に選ばれれば親兄弟の死を一分一秒でも引き延ばすことができる。そう思ったんです」。門奈さんにとってそれは喜びだった。立派な死に場所を得られる、との。

門奈さんが陣地造りに携わった特攻艇「震洋」とみられる舟艇。モーターボートの船首に爆薬が積まれ、その色から「青蛙」と呼ばれたという=1945年7月12日、沖縄(米海兵隊撮影、AP)

 10日ほど後になって、寄宿していた民家の「岸本さんのおばさん」と呼んでいた女性から、同宿の同僚とともに夕食に招かれた。

 自らも夫を戦地に取られていた「おばさん」は、正座してあいさつしたという。

 「今まで何もおもてなしできなくて申し訳ありません。分かっています、まもなく行かれるのですね」

 灯火管制の遮蔽(しゃへい)幕が下ろされた薄暗い部屋のちゃぶ台の上に、唐草模様の大皿に盛られた2匹のサバの姿煮が浮かび上がっていた。食糧難だというのに刺し身も焼き魚もあった。

 「湯呑(ゆのみ)茶碗(ぢゃわん)の焼酎で乾杯したものの、卓上の料理にはなかなか手が出せなかった」と、門奈さんは後に手記で振り返っている。

 この時はまだ、何の特攻兵器に搭乗するかは知らされていなかった。三重県の参宮線の小駅から軍用列車に乗せられ、翌朝、横須賀線の久里浜駅に着いた。窓外を見るのも外から見られるのも「軍事機密」。列車の窓にはブラインドが下ろされ、どこを走っているのかも分からなかった。

 ただ、名古屋の街だけはふとした時に一瞥(いちべつ)することができた。門奈さんは、その光景をよく覚えていたという。空襲でほとんど更地になっていたからだ。

 組織的に行われた特攻についても戦後、菅原道大元陸軍中将が主張したように「自発的意思」だったとする見解がある。しかし実態は門奈さんのように事実上の「強制」だったとする証言が陸海軍を問わず多い。栗原俊雄著「特攻-戦争と日本人」は、特攻隊員の3分の1が特攻を希望していなかったとする陸軍による戦中の調査を紹介する。

 保阪正康著「『特攻』と日本人」は、一般的な「祖国愛」と特攻とを冷静に切り分けて論じた上で、門奈さんのように親兄弟の安寧を祈った「下部構造のナショナリズム」が、国策という「上部構造のナショナリズム」に利用されたと指摘する。

戦後に知った「無謀」

 海軍の飛行機乗りを目指していた故門奈鷹一郎さん=横須賀市=は、海底で敵艦めがけて自爆する特攻「伏龍」の任務を知らされ「空でなく水か」と落胆したという。大戦の終局が迫っていた1945年7月のことだった。

 門奈さんは沈降、海底歩行、浮上の潜水訓練を1カ月の間に数十回と繰り返した。午前、午後15分ずつと時間こそ短かったが、それは人間としての「自然」を否定する過程だった。

 片足に重さ1キロの鉛製の「わらじ」、腹部には9キロの前垂れ、背中に2本の酸素ボンベ。総重量68キロの重りを負って海に入る。自らを水に沈めるための装備だ。

旧海軍の特攻兵器「伏龍」出撃のために掘られた洞窟から望む太平洋。波乗りを終えた少年が通り過ぎた=鎌倉市の稲村ヶ崎

 呼吸さえ自由にはさせてくれなかった。呼気の二酸化炭素を、カセイソーダ入りの洗浄缶にくぐらせて再び吸気として用いる。

 そのために鼻で吸って口で吐く「一方通行」に体をならす必要があった。鼻と口を逆にすれば中毒を起こすし、万一、洗浄缶に穴が開いて浸水すれば、化学反応が起き沸騰して喉を焼く危険があった。実際、それで死傷した人がいた、との証言も残っている。

 ある時気付いた。「もしかしたら、機雷なんて一つもないのでは」と。後年の門奈さんの研究で設計図の存在は突き止めたが、生産に移された形跡はない。

 「のんきですよね、当時はどこかにあるだろうと思っていたんですから」。自爆する道具を持たぬ特攻隊。伏龍は実戦投入されることなく、日本は負けた。

 「戦争中と戦後とでは、私のものの考え方は百八十度違うんです」と、生前の門奈さんはしばしば語った。高校に復学し、図書館のロシア文学を片っ端から読み、特に戯曲「どん底」で知られるマクシム・ゴーリキーの作品に引かれた。「どんな境遇にあっても自分を見失わない生き方というものを知りました」

 ただ「百八十度-」には注釈がある。「いきなり白が黒にパッと変わったわけじゃない。言い表すのは難しいのですが…」。海軍予科練生としての誇りは持ち続けていた、と回想する。例えるなら、蒙古斑(もうこはん)の色がいつまでも抜けないように。

 それだけに、伏龍について調べ実相に迫るほど、その無謀さに言葉を失った。上陸前、水際に向けて何時間も艦砲射撃を加える、という米軍の常とう手段も知った。ならば、たとえ海底に潜んでいても直撃を受けて爆死していたはずだ。

 「私たちは消耗品と言われたけれど、消耗さえされずに消されようとしていたのです」

 戦争が長引いた場合、米軍は1945年11月に九州、46年3月に関東上陸を計画していた。それぞれオリンピック作戦、コロネット作戦と称された。大西比呂志ほか著「相模湾上陸作戦」によると、コロネット作戦は湘南海岸と千葉・九十九里浜に100万を超える地上部隊を投入し京浜地区を制圧する計画で、茅ケ崎はその主上陸地点と位置付けられていた。

 一方、日本側は45年に入り「本土決戦」を掲げ、茅ケ崎では「水際玉砕」が構想された。民間人に対しては、退避より軍需工場などへの動員を優先させる考えだった。

 
 

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