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凍土を穿つ
シベリア抑留の記憶<2>暗号、武器隠滅の命令

社会 | 神奈川新聞 | 2015年2月20日(金) 11:22

 敗戦を知ったのは満州の奉天(現在の中国遼寧省、瀋陽)郊外にあった飛行場だった。「負けたといっても、負けたという実感はなかったね」。当時17歳で、陸軍航空隊の通信兵として満州に赴いていた関谷義一(87)=長野県長和町=は、そう振り返る。

 直後、関谷は奉天から200キロほど南へ下った安東(現・丹東)の飛行場に転属を命ぜられた。現在の中朝国境となっている大河、鴨緑江の河口近くにある大きな街だ。列車を降り、飛行場から迎えの車が来るのを安東ホテルで待った。

中朝国境を流れる鴨緑江。対岸は北朝鮮・新義州=中国・丹東

 そのホテルは豪奢(ごうしゃ)な西洋式で、中央部の角張った塔が物々しく街路を見下ろし、外壁をれんがで飾った2階建てが左右に長く伸びていた。「満州国」の日本人のための施設だ。

 「ホテルの奥さんは泣いておりましたね。日本が負けたらしい、と」。1945年8月15日。昭和天皇が読み上げた終戦の詔勅、いわゆる玉音放送を、雑音交じりのラジオで聞き取ったその女性は、放心していたという。それでもなお、関谷に実感はなかった。

 「小さいころから、日本には神風が吹くと教わってきたから。それに、たとえ内地(日本国内)で負けても(中国大陸など)外地では戦い続けると思った。最後の最後まで戦うのが、私たちの使命ですからね」

 ホテルの女性の涙は関谷たち軍人にとって、軍隊の外(それを軍人は「地方」といった)のことにすぎなかった。安東の飛行場で、関谷たちは次の命令を受けた。ソ連軍が来る前に、無線のやりとりに用いる暗号書を焼却し、武器は穴を掘って埋めよ、というものだった。畳みかけるように、さらに命令が来た。「ただちに鴨緑江を渡り、朝鮮・新義州に集結せよ」-。新義州は、鴨緑江を挟んで安東の対岸に位置していた。「橋を渡るとき、持ち物に重りを付けて川に投げ捨てましたね。だから、何も持たずに…」

抑留は従軍看護婦ら民間人も

 シベリアなどソ連領内に抑留されたのは、日本軍将兵だけではなかった。被抑留者約57万5千人(厚生労働省調べ)の90%以上は軍人、軍属だが、残りの民間人の中には従軍看護婦や女性タイピストらもいた。

 収容所は計約2千カ所。所在地は北極海近辺から南は中央アジア、東はカムチャツカ半島、西は黒海周辺までソ連領のほぼ全域(ほかにモンゴル)に及んだ。

 抑留された約80%がシベリアに収容された。その理由を、シベリア抑留研究会代表世話人で成蹊大名誉教授の富田武は「最果ての地、シベリアは労働力不足が最も顕著だった」という。

 ソ連が全土で使役した各国の捕虜は計400万人以上。地域別、業務別(鉄道敷設、道路建設、石炭採掘、森林伐採ほか)、さらに掘削や運搬など具体的な労働別に必要人数を割り出していた。それでもソ連側の準備が間に合わず、捕虜自身が自分たちが入る収容所を造った例もあった。

 冬季には氷点下30度、40度になるシベリア。「刃物で切られるような」と表される極寒と重労働、飢餓の三重苦に襲われて、約5万3千人(モンゴルを除く)が凍土に息絶えた。

「マンドリン」の威力、悟った敗北

 みるみる高度を上げた戦闘機は上空で機首を翻し、一気に滑走路に突っ込んだ。エンジンとプロペラの回転音が近づき、周囲を圧する大音響とともに炎上した。5機も続いたろうか、敗戦から程なく、操縦士が自爆したのだった。

 「もう生きておったって、という気持ちがあったんだろうね」。その瞬間を目の当たりにした関谷は戦友の思いを推し量る。

現在の丹東(旧・安東)の街並み=中国・遼寧省

 関谷は1944年から45年にかけて、陸軍航空隊の通信兵として朝鮮や満州に身を置いた。役目は、作戦命令などの暗号をモールス信号で伝達すること。作戦上、重要な任務である一方で、地上戦のような殺し合いの場面に出くわすことはなかった。国内のような大空襲にも遭わなかった。それだけに、この自爆は生々しい死の光景だった。

 「みんな目の前で…。つらかったですね」。自身、飛行機乗りを志して航空隊に入ったのだ。憧れの対象だった戦闘機が跡形もなくなり、炎を上げていた。

 命令に従い、武器や通信暗号書を焼却、隠滅した関谷は、満州・安東(現中国遼寧省・丹東)から鴨緑江の大橋を歩いて渡り、対岸の朝鮮(現北朝鮮)・新義州へ移動した。

 自爆を目撃したとはいえ、この時の関谷は決して「敗走」などとは思わなかったという。あくまで部隊の一員として命令に従い行動している-。それだけだった。「日本が負けるという考えは、最後の最後まで、爪のあかほども持たなかったね」

 だが朝鮮に入り、やがて武装したソ連軍に遭遇して、自らの状況を知った。ソ連兵は肩から「マンドリン」の俗称で呼ばれた短機関銃を下げていた。

 「バッと下ろして、ザザザッと(連射する)」。関谷の知っていた日本軍の兵器とは、迫力がまるで違った。「びっくりしました。初めて見た。これはもう駄目だと…」。関谷は、ようやく敗北を悟った。

=敬称略

 
 

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