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凍土を穿つ
シベリア抑留の記憶<1>捕虜の船は北へ「氷の上を歩け」

社会 | 神奈川新聞 | 2015年2月19日(木) 11:25

 戦争は1945年8月15日に終結したのではない。飢えと寒さが体を貫き、数々の死を眼前にしなければならなかったシベリア抑留は、戦後の「戦争」だった。その苦しい記憶は、懐かしい郷里の土を踏んでなお残った。神奈川新聞社OB、関谷義一さんの経験を軸に、そのことを思いたい。当時の記憶が薄れ、「次の戦争」の危機感も漂う戦後70年の今に。 


「つらくて話せなかったけれど、(同期の戦友は)みんないなくなってしまった。伝えなくちゃいかんね」と、重い口を開いた関谷義一さん=長野県上田市

 内地へ帰れる。そう信じて疑わなかった。それなのに、船がいくら走っても陸影はいっこうに遠ざからない。

 朝鮮や中国、そしてソ連が一続きにある、途方もなく大きな陸地が、左舷いっぱいに見え続けていた。「北へ向かっている」。当時18歳だった日本陸軍兵長、関谷義一(87)=長野県長和町=は不審に思った。

 何日か後に着いた港はソ連の要塞(ようさい)、ウラジオストクだった。現在の北朝鮮領にある興南の港で乗船させられたのは、敗戦から4カ月余りたった1945年末。ウラジオストクに至って年が明けた。

 「ここで手続きをしてから内地へ帰す、そういう規則か何かがあるんだろうと思っていた」。周りにいるソ連兵も「ダモイ(帰国)」と繰り返している。じれったいが、どこか安閑としてもいた。

 再び出航した船はしかし、依然として北へと進路を取り、やがて結氷した海原に突っ込んで止まった。興南を出て数週間はたっていただろうか。関谷はようやく悟った。

 「おかしい、だまされている」

 船には、船倉から甲板まで何層にもわたり、千人ほどの日本人捕虜がぎっしりと詰め込まれていた。床に膝を立てて座った人の股ぐらに、別の人が寄りかかる。茶わんを積み重ねるように捕虜が折り重なっていた。「一番困るのが用を足しに行くときでね…」

 氷原の立ち往生からしばらく、その捕虜たちにソ連兵は命令した。船を下りろ、海の上を歩け、と。

◇ ◇

 関谷は旧陸軍航空隊の通信兵として先の大戦を朝鮮半島や中国大陸で過ごし、終戦後3年近くにわたりシベリアに抑留された。空腹と極寒にさいなまれながらも、同胞を助け、ソ連兵と親交を深める稀有(けう)な経験をした。それは、溶けることのない凍土を穿(うが)つがごとき行動だった。「証言者として、伝える責任がありますからね」。そう言って、重い口を開いた。

倒れる戦友、死が救い

 「寒くてね」。関谷は一言、そう振り返った。

 敗戦後、武装解除され身一つで収容されていたから、もちろん夏の格好のまま、防寒具など身に着けていない。氷点下10度、20度、時に40度という沿海州の、遮る物さえない海の上を、あるいは雪が吹き付ける氷原や針葉樹林帯を、隊列を組んで進んだ。列車やトラックに乗れるわけではなかった。ひたすら歩かされた。

 「途中で倒れて亡くなった人もずいぶんおったでしょう。軍馬も相当倒れた。全部凍っちゃうんですからね」。上陸してからは川伝いに山道を上った。

 その途中だったか、それとも収容所から収容所へ移動する間のことだったか。関谷は行き倒れになった捕虜に出くわした。同じ船に乗った仲間だった。「何とかしてくれ、とソ連の下士官に頼んだら、おまえがやれと言うものだから…」

 抱いて温め、熱い物を飲ませてやると、その人は息を吹き返した。その刹那、彼はものすごい形相に変わったという。「寒い寒いと倒れるでしょう。そこを通り越すと温かく、気持ちよくなるらしいんです。『あのまま逝けばよかった』と言っていました」。極楽から酷寒の現世へと引き戻された苦しみの表情だったのかもしれない。

 「船の中では、まだ栄養が取れました。けれども向こうへ着いてからは、もう余力がなかったね」。当初の食事は、でんぷんのような粉を湯に溶いたものに、乾燥した野菜の切れ端を混ぜ、練って固めたもの。およそ食べ物と呼べる代物ではなかった。それも1日に1回きりだ。

 「栄養失調で死ぬ、寒さで死ぬ、凍傷で死ぬ。最初の冬だけで大半が亡くなったろうと思います」。このとき助けた戦友の消息も知れない。

全てはスターリンから

 1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告した。ソ連軍はなだれを打ってソ満(ソ連と満州)国境を越えて満州に侵攻した。同15日終戦。同23日、ソ連首相スターリンは秘密指令を出す。「日本軍捕虜50万人をソ連領内に移送して強制労働させよ」。戦争が生んだ“戦後最大の悲劇”の始まりだった。

 第2次大戦による死者は(諸説ある)日本310万人、ドイツ550万~690万人に対して、ソ連は2千万~2700万人と桁外れに多い。戦後復興のための労働力不足は深刻だった。スターリンは捕虜の使用に着目した。

 ソ連軍は満州に展開していた関東軍をはじめ、朝鮮半島や樺太、千島にあった日本軍将兵を武装解除してシベリアなど広大なソ連領内に移送、抑留。こうして“集団拉致”された人は厚生労働省によると約57万5千人、うち約5万5千人が異国で亡くなった。

 ソ連は対日参戦した8月9日、ポツダム宣言に加わった。日本が受諾したその第9項に「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」とある。抑留は、この条項に違反していた。

 シベリア抑留研究会の代表世話人で成蹊大名誉教授の富田武(ソ連政治史・日ソ関係史)は「ソ連はすでに約240万人のドイツ兵捕虜らを領内に移送し、使役していたから、日本兵の移送も既定方針だったはず」とみる。

=敬称略

 
 

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