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間一髪で逃れた空襲 終戦直前、爆弾の破片が家の畳に

社会 | 神奈川新聞 | 2015年7月30日(木) 10:47

葉山水樹さん(79)

 自宅(藤沢市鵠沼海岸)の庭で、すぐ下の弟と遊んでいた時でした。1945年7月30日ごろの午後だったと記憶しています。急に警戒警報が空襲警報に変わりました。

 「水樹君、何やってんの。早く来ないと叱られるよ」-。親戚にそう言われて走りだしました。見上げると米軍機が、2機だったと思うが、家の上を旋回し始めました。

 防空壕(ごう)に駆け込んで間もなくです。ドーンという衝撃音がありました。砂ぼこりで真っ暗になったが、吹き飛ばされる木の枝が鮮やかに目に映りました。

 実家は鵠沼で五本の指に入る地主の家でした。4千坪の敷地に母屋とベアリングの製造工場などが並び、シイの木が森みたいに広がっていました。

爆撃後に修復された葉山さんの生家。今は解体され、残されていない(葉山水樹さん提供)

 あのころ米軍機は厚木基地に向かってよく上空を飛んでいました。けれども何らかの理由で爆弾を落とし損ねると、抱えたままでは空母に戻れません。わが家を兵舎と勘違いして“処理”していったと推測していますが、確たる理由は今も分かりません。

 幸い人的な被害はなかったが、自宅は半壊しました。玄関から出られずにいた父の頭を爆弾の破片がかすめ、母と妹、末弟が隠れた押し入れ前の畳に突き刺さりました。兄(後の藤沢市長・葉山峻さん)が暗い防空壕内で、読書していたことを覚えています。

 爆弾の投下地点は、さっきまで弟と遊んでいた場所で、近くにはニワトリ小屋がありました。爆発でニワトリがすっ飛んで木の上方に3羽ほど引っかかり、血を垂れ流していました。もし親戚に声を掛けられなかったら、私もニワトリと一緒だったでしょう。

 「やられた、何で俺の家だけ」「あと15日終戦が早ければ」とは当時思いました。

 でも、「鵠沼で唯一爆撃された家」と言われても、特に思うところはありません。ほかの空襲と比べて、どうってことないからです。アピールする力がありません。甚大な被害を受けたよその地を思うと、大げさに訴えることはしたくありませんでした。

 むしろ、今の若者や子どもたちには、そうした各地の空襲の記録を読んでほしい、広島や長崎に足を運んでほしい。今の人は戦争を自分のこととして結び付けられません。できるだけ戦争の記録を知り、そこから何かしら感じてほしい。60年安保の比じゃなく、今は本当に戦後の大きな曲がり角に来ていますから。

 
 

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