1. ホーム
  2. ニュース
  3. 社会
  4. 新潟・長岡空襲からの避難 停電の夜は母に甘える時間だった

#あちこちのすずさん~連携メディアから
新潟・長岡空襲からの避難 停電の夜は母に甘える時間だった

社会 | 神奈川新聞 | 2021年8月11日(水) 23:08

 新潟日報は、太平洋戦争中や戦後の暮らしのエピソードを紹介する「#あちこちのすずさん」と連携した記事を、シリーズで「まいにち ふむふむ」に掲載します。初回は、ふむっ子記者で新潟大学付属長岡小5年の渋谷日向里さん(10)が長岡戦災資料館を訪ね、長岡空襲の語り部をしている今泉恭子さん(82)に話を聞きました。


 長岡空襲は1945年8月1日夜にありました。アメリカ軍の爆撃機B29による焼夷弾攻撃で、長岡の街は市街地の8割を焼失し、約1500人が犠牲になりました。

 今泉さんは幼稚園の年長でした。「寝ていたら母に起こされて、暗い方、暗い方へと逃げました」。父親を先頭に、火が回っていない暗い場所を探して逃げ、たどり着いた田んぼで朝を迎えました。

 両親ときょうだいの一家6人は無事でしたが、家は焼けてしまいました。一家は小千谷市にある母親の実家に身を寄せました。

 戦後間もないころ、家を建てるのは大変でした。あらゆる物が不足していた上に、男の人は戦地に行っていたため、大工さんの数が少なかったからです。

 そこで、今泉さんの両親は「おにぎり作戦」で大工さんを引きつけます。空襲の翌年、一家は新築工事が進む自宅近くの家に間借りし、庭に置いたしちりん(炭を使うコンロ)で毎日お米を炊いて、大工さんにおにぎりを振る舞いました。「白いご飯のおにぎりは何にも代えられない魅力があったんです」

 引っ越した日のことも忘れられません。「屋根ができたらすぐに移って、家族6人で寝ました。畳や戸はまだなくて、外に星が見えたけど、うれしくてうれしくて」。昨日のことのように声を弾ませます。

 新しい家には、親戚や近所の人がお風呂を借りに来ました。今泉さんはお姉さんと2人、風呂に水を運ぶ手伝いをしました。「子どももできることをして、みんなで助け合って生きていました」と振り返ります。

 この頃、夜の停電はちょっとした楽しみでした。当時は電力事情が悪く、よく停電が起きました。毎晩、遅くまで裁縫などをしているお母さんが、停電すると手を止めて横になるので、すかさず隣に行きました。「母と昔話やしりとりをするのが楽しかった。母に甘えられる時間でした」

<焼夷弾> 火災を起こすことが目的の爆弾で、日本を攻撃するためにアメリカ軍が使用しました。

あちこちのすずさんに関するその他のニュース

社会に関するその他のニュース

PR
PR
PR

[[ item.field_textarea_subtitle ]][[item.title]]

アクセスランキング