津久井やまゆり園事件から5年。共生のあるべき形が問われ続けている。「共に生きる」とは─。
横浜・寿地区の生活支援員 鶴見 福司さん

強い日差しは、暑い一日を予感させた。午前9時半ごろ、梅雨の晴れ間の寿地区(横浜市中区)を人々が行き交っていた。
つえを突く高齢男性、介護事業所前で車から荷物を降ろす女性スタッフ、自転車に幼い子どもを乗せた女性─。日常の風景に溶け込み、バケツや掃除用具を片手に闊歩(かっぽ)する4人の男性がいた。道の反対側から親しげに「ようっ」と声が掛かると、先頭の男性が声の主に右手を挙げて応じた。
5分ほどで10階建ての簡易宿泊所(簡宿)に着き、「おはようございます」のあいさつとともに、4人は館内へ吸い込まれた。
先導した男性は寿を拠点とする就労継続支援B型事業所「ぷれいす」の生活支援員、鶴見福司さん(37)=同市南区。続く3人は「ぷれいす」の利用者だった。
「鶴見福二郎」
日は落ち、暗闇が広がっていた。2015年3月15日、鶴見さんは鶴見川の河川敷を黙々と歩いていた。「帰らなければ」との漠然とした思いに突き動かされ、ひたすらに歩を進めたが、ふと我に返り、自問した。
「帰るって、どこに。なぜここにいるんだ。そもそも自分は誰なんだ」。一切の記憶を失っていた。
さらに歩き続け、見つけた交番に駆け込み、パトカーで鶴見署に向かった。所持品はタバコと小銭だけ。着衣にも身元につながる手掛かりはなかった。署員と足取りをたどったが、日産スタジアム(同市港北区)の近くから川沿いを下流に向かって歩き続けたというおぼろげな記憶しか残っていなかった。指紋を採取されたが、事件性はないと判断された。署内のベンチで一夜を明かした。
翌朝、ソーシャルワーカーに付き添われ、病院に足を運んだ。けがや病気はなかったが、栄養失調と診断され、点滴を打った。
当面は寿の生活自立支援施設「はまかぜ」に身を寄せることになり、手続きに必要な氏名と生年月日が決められた。「鶴見福二郎、1984年3月16日生まれ」。この日、鶴見区で保護された2人目という理由だった。容姿から判断し、31歳の誕生日となった。