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序列をこえた社会に向けて
やまゆり園事件 最首悟さんからの手紙㉟

社会 | 神奈川新聞 | 2021年5月16日(日) 11:55

(報道部から)  最首さんが植松死刑囚に手紙を送るようになって、まもなく3年を迎えます。被告から死刑囚へと立場が変わり、厳しい接見制限からその様子をうかがい知ることはできません。そんな中、この返信にも最近変化がみられるようになりました。返事が返ってくるわけではないのに、なぜ返信を送り続けるのか。そこにどんな意味があるのか。最首さんは改めて自らに問い、そして読者の皆さんにメッセージをつづりました。

植松聖死刑囚

 この返信を読んでくださっている皆さんへ。毎月、東京拘置所の植松聖青年に返信を送っています。ところが、今年の2月から、不在の付箋がついて送り返されるようになりました。電話で、不在とはどういうことかと訊ねましたが、不在という以上は答えられないという返事でした。死刑囚には一般の手紙は届かず、ただ保存はされて、死刑執行後、家族に渡されるということを聞いていましたので、この1年、読まれないことを承知して、出してきました。

 でも、心のどこかで、ひょっとして、手紙が出されているとか、手紙が来ているということが植松青年の耳に入るかもしれません。それでいいとも思ってきました。

 植松聖について、植松青年と呼んできました。そして八つ裂きにしてやりたいとも。二度目に植松青年と面会したとき、八つ裂きはひどいと言われました。新聞を読んだか、聞いたのですね。私も自分で言っておいて、ひどいと思います。皆さんもそうお思いでしょう。植松青年と呼んでいるのは、この共通の面を持っている植松聖です。共通の面があるということは、言葉が届くということでもあります。

 植松聖はわたしの娘の星子は人間ではないと手紙で書いてきました。そうではないと、私は植松青年に返事を書き始めました。そして、やまゆり園事件や植松聖に関心をよせる皆さんにも読んでいただきたいと思いました。幸いにして、1回につき原稿用紙5枚の返信がこのように実現しています。

 今回、拘置所の受理拒否にあたって、返信という形でのわたしの思いや考えの伝達は切り上げようとも思いましたが、やはり、植松青年という呼びかけに含まれる意味合いから、返信を続けてゆくことにしました。植松青年と私たちが共通する面とは、みなさんやわたしのなかに、植松青年がいるということでもあります。ひょっとすると奥深く植松聖が潜んでいるかもしれません。そのような植松青年に返信を続けていこうと思います。

最首 悟


知は力について

2021/05/13

 知は力について、力は建設と破壊だということを念頭に置いて、前回、人間を機械と見なす考えと、働かざる者食うべからずという人間の見方を取り上げました。ではそういう時代の中で、知的、体力的に働くにも働けない人たちをどう見たのか、阿部秀雄の『弱者を捨てる アメリカ型福祉観への問い』(田端書店、1978)を見てみたいと思います。その第8章は、「『流竄(るざん)録を読む――内村鑑三の州立白痴院体験」です。

 日本の福祉の考えには内村鑑三が欠かせません。流竄録は明治17年(1894)、内村鑑三がアメリカに渡ったときの記録です。約7ヶ月間「白痴院」で働きました。当時の施設関係者たちに使われていた白痴の代わりに使われていた表現を内村鑑三は書き留めています。――人間の廃物、人類中の廃棄物、社会の廃棄物、社会の妨害物、社会の煩累、社会の災害、下劣のアメリカ人、下劣の米国人、下劣の学生。

 内村鑑三は客観的に事実を書き留めたのだろうか、そうではないと阿部秀雄は言います。慈善事業を学びたいと思うなら、最下等の位置から始めよと勧められて「下賤の業」を採ることを予期していたと答えた内村鑑三には、知恵遅れの子どもたちへの至誠と蔑視が共存していたとした上で、阿部秀雄は次のように書いています。

 ――「下賤の業」を採った鑑三は、「朝夕これら下劣の米国人の糞尿の世話まで命ぜられ」たのであり、「舌もろくろく回らざる、かの国社会の廃棄物」にジャップ呼ばわりされた、と言った調子である。これらの事例や用語に現れた白痴観は、なまじ改まって表明されたものではないだけに、かえって鑑三のほんねの部分を正直に表現している、といえよう。

 なお、阿部秀雄が、この第8章の初めに置いた『流竄録』からの引用文は次のようです。――山上に、一村落をつくり、七百の白痴と一百の慈善家が、一家団欒の和睦の内に共に一生を送りつつあるの景況を思い見よ。これを天国と称せずして何とか言わん。

 パールバックの、中国や日本では障害のある子どもが街なかを走り回っている、でもアメリカでは娘と一緒に暮らせないという嘆きを思います。

 内村鑑三の社会から隔離した施設の福祉観は日本に定着しました。そして太平洋戦争後、近江学園、びわこ学園を創設し、戦後日本の障害者福祉を切り開いた第一人者と言われる糸賀一雄は、「この子らを世の光に」という本を著しました。内村鑑三や糸賀一雄の至誠を疑うことはできません。でも、この二人の先駆者の福祉観は上から目線のものと言わざるを得ません。当事者を立てる水平型の福祉観への模索は、今、進行中と言っても過言ではないのです。

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