
〈百年後に語り継ぐために〉
東日本大震災で14人が死亡、2人が行方不明となった千葉県旭市で、津波の教訓を伝えるために編集されてきた「復興かわら版」。その発行は近く終了する予定だが、昨年12月に出された第61号の見出しには、ひときわ目立つ言葉が刻まれた。
決意を記したのは、「2011年旭市の津波被害を記録する会」の代表、春川光男(69)。「震災の直後から海沿いの一軒一軒を訪ね歩いて調査を重ねた」成果などを踏まえ、かわら版の中では津波の教訓として四つを挙げた。
〈津波は後の波ほど大きい〉
〈警報が解除されるまでは絶対に帰宅しない〉
〈沖を通過した津波が戻ってきた事実を語り継ぐ〉
〈前例にとらわれない〉
市内で特に被害が目立った東部地域の名称から「飯岡津波」と呼ばれることが多い旭市の津波。多くの住民が巻き込まれた背景として指摘されてきたのは、津波に対する「油断」だ。
2011年3月11日午後2時46分。三陸沖で国内観測史上最大となるマグニチュード(M)9・0の巨大地震が発生した。震度5強となった旭市を含む「千葉県九十九里・外房」には地震の約30分後に大津波警報が発表され、多くの住民が高台へ逃れた。
来襲時刻で止まった時計
津波そのとき 千葉・旭市から(中)記録で語り継ぎたい
調査成果のパネルについて説明する春川光男さん=1月、旭市防災資料館 [写真番号:539802]
津波が押し寄せた時刻で止まった農協支店の時計=2011年3月、千葉県旭市 [写真番号:539816]
千葉県旭市飯岡地区に押し寄せた津波。第3波とみられる=2011年3月11日(NPO法人「光と風」提供) [写真番号:539818]