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平和つなぐ 戦後75年
沖縄戦の実相伝え 司令部壕の活用へ機運

社会 | 神奈川新聞 | 2020年9月7日(月) 10:00

日本陸軍第32軍司令部壕の内部=6月30日、那覇市

 第2次世界大戦末期の沖縄戦で、首里城(那覇市)の地下に造られた日本陸軍第32軍司令部壕(ごう)。日本軍の中枢を成し、住民に甚大な犠牲をもたらした戦禍の実相や「軍隊は住民を守らない」との教訓を伝える戦跡だが、整備されぬまま戦後75年がたった。昨年焼失した首里城は平和を重んじる琉球文化の象徴として再建し、地下は戦禍の語り部として保存・公開を─。平和と戦争を一体的に追体験できる希有(けう)な場所として、活用に向けた機運が高まっている。7日は降伏調印式が行われ、沖縄戦が終結した日-。

 「それはもう、無念に感じておられました」

 名桜大学名誉学長の瀬名波栄喜さん(91)=那覇市=は、元沖縄県知事の大田昌秀さん=享年92=の姿が忘れられない。

 沖縄戦には住民も駆り出された。米軍約55万人に対し、日本軍は約10万人。このうち2万数千人は兵力不足を補うため、住民を急きょ集めて組織され、現在の中学生や高校生ほどの生徒による学徒隊もつくられた。大田さんはその代表的な「鉄血勤皇隊」に動員され、沖縄戦最後の激戦地と称される本島南部の摩文仁(まぶに)での戦闘を生き抜いた。同期125人のうち生存者はわずか37人だった。

 「(大田さんは)多くの学友を失ったという負い目を抱えていました」

 なぜ住民が犠牲にならなければならなかったのか、生き残ることができたならば明らかにしたい─。戦時中の志を貫き、戦禍の実態の継承に心を砕いた。

 戦後、沖縄戦や戦後史を研究し、1990年の知事就任以降は平和行政に心血を注いだ。その代表例が太平洋を望む摩文仁に建立した石碑「平和の礎」だ。国籍や軍民の区別なく、沖縄戦などの戦没者24万人余りを刻銘し、世界平和の願いを託した。

 司令部壕の保存・公開を悲願とし、検討委員会を立ち上げ、その委員長に就いたのが瀬名波さんだった。基本計画をまとめたが、大田さんが98年の知事選で敗れ、立ち消えとなった。

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