長崎原爆の日の9日、長崎で被爆した三角陽子さん(77)=横浜市港南区=が同市鶴見区の鶴見区役所で体験を話した。火の手から逃げた経験や平和を尊ぶ訴えに、子どもら約70人が聞き入った。
同区役所で開かれている「鶴見区親と子の原爆パネル展」の一環。
原爆が落とされた午前11時2分すぎ、参加者は1分間の黙とう。「この時から、頭の中に忘れられない記憶です」。6歳のときに爆心地から3・3キロの地点で被爆した三角さんが、被爆者健康手帳を手にしながら話し始めた。
長崎市内の伯母の家にいた。近くで友達と遊んでいた三角さんを「はやかばってん(早いけれども)、お昼ごはんにしよう」と伯母が呼びに来た。家に戻った瞬間だった。
伯母が手をかざして上空の飛行機を見たときにピカッと光った。家は爆風で多大な損傷を受け、川の対岸は火が燃え広がり、山の上に逃げた。下を見ると、火の海。野宿を重ね、叔父の押す大八車に乗り、母親と再会できたのは6日後だった。
伯母の家は当初の投下予定地近くだったが、雲で覆われていたこともあり、北寄りに変更されたことを後に知る。「予定通りだったら、こうして話をすることもできなかった。伯母が呼ばなかったら、離れ離れになっていたかもしれない」と振り返る。
「勉強したくてもできない時代があった。平和の尊さを感じてほしい」との訴えに、耳を傾けた児童(12)=鶴見区=と児童(10)=同区=は「今は学校にも行けるし、恵まれている。戦争は絶対してはいけないと思った」と話していた。
県原爆被災者の会横浜支部の副会長を務める三角さんは「二度と同じ過ちを繰り返さないように、被爆体験を訴え続ける」と使命感を口にしていた。