吉川醸造(伊勢原市神戸)は背後に、別名「雨降り山」とも称される大山を仰いで立つ。その峰に降り注いだ雨は、今も豊富な地下水を育んでいる。敷地内にある3本の井戸からくみ上げ、酒造りに生かしている。
「大山が豆腐で有名なのもそうだし、カップラーメンや即席麺を作っている東洋水産の工場があるのも、大量の水が必要だからだと聞いた。ここは水に恵まれた土地なんです」
大正元(1912)年創業の吉川醸造は、社長の吉川勝之(53)で6代目になる。蔵の周辺はかつて葉タバコの生産地で、もともと吉川家はその製造・販売を手掛けていた。たばこが国の専売事業となることを機に、近くにあった酒蔵を買収して商売替え。当初はその名の通り、酒だけではなくみそやしょうゆなども造る醸造会社だった。
酒造りを本格的に始めたのは4代目の清治(故人)だった。「太平洋戦争中も酒造りは許されていた。物資がなくなる中でも、うちには米があった」。終戦を迎え、戦後の復興が軌道に乗り始めると、事業はいよいよ加速を始めた。設備投資も積極的に行い、生産量は右肩上がりだった。
蔵に入ると、当時の隆盛が分かる。杜氏(とうじ)の水野雅則(37)が蔵を見渡して言う。「タンクが設置された年が書いてありますが、ほとんどが昭和30年から40年代なんです」。規制緩和により大手が大量生産で攻勢を強める中、品質の改良と商圏・販路の拡大に努め、競争力を付けていった。
当時、多くの酒蔵で酒造りを支えたのは、農閑期に新潟から来る「越後杜氏」と呼ばれる人たちだった。仕込みが始まる冬に出稼ぎで訪れ、春まで働く。吉川醸造にも最多で17人が来ていた。
今でも酒蔵の2階には彼らの部屋があるほか、1階の休憩室には巨大な掘りごたつが設けられている。「昔はここで大勢が膝をつき合わせて、たばこを吸ったり酒を飲んだりしていたんでしょうね」。現在、同じ部屋で日々、1人静かに酒造りのデータを書き込む水野には、往時の喧噪(けんそう)が少しうらやましい。
にぎやかな時代への憧れには、それと対照的な業界の現状がある。
国税庁によると、日本酒の販売量は昭和50(1975)年をピークに徐々に減少を始める。平成という新たな年号がなじむ頃には、日本全国の酒蔵が「冬の時代」に突入していく。
吉川醸造も、例外ではなかった。生産量は最盛期の3分の1となり、新潟から来る助っ人は2人にまで減った。先代の社長、吉川昌男(82)はその盛衰をつぶさに見てきた。「蔵人(くらびと)を減らすのはそりゃ寂しい。でも、時代には勝てない」
2010年、バトンを息子に手渡した。それは苦難の中の船出でもあった。
=敬称略