綱島温泉の発祥を伝える石碑が行方不明-。そんな知らせが記者に舞い込んだ。再開発が進む横浜・綱島で、かつて「東京の奥座敷」とうたわれた花街の名残をとどめる唯一の史料だ。消息を尋ねるうち、見つけたのは、住民のポカポカした郷土愛だった。
住民奔走「地元で保存を」
石碑は、横浜市港北区樽町2丁目の民有地に立っているはずだった。今月3日に駆けつけると、どこにも見当たらない。
敷地内の空き家は、取り壊しが進んでいた。解体業者によると、今月に入って更地化が始まった。万事休すか-。
昼食中の工員が教えてくれた。「2日前に町会長が引き取っていきましたよ」。どうやら、県議の嶋村公さんらしい。
近所の事務所を訪ねた。秘書の後藤久世さん(62)が「こっち」と庭先に手招きする。漆黒の巨石がたたずんでいた。「ラヂウム霊泉湧出記念碑」と刻まれている。無事だった。

縦1・2メートル、横50センチ、厚さ6・5センチ。「処分」と手書きされたテープが貼られている。「間一髪だった」と後藤さんは振り返る。
郷土史に詳しい地元の女性(45)がたまたま注意書きに気づき、「これは大変」と夫(44)に連絡。夫は市役所に連絡しようとしたが、土曜のこの日は閉庁で、相談した相手が嶋村さんだった。夫婦は「ダメ元でした」と打ち明ける。
嶋村さんと後藤さんは解体現場に駆け込み、業者を説き伏せて石碑を譲り受けた。2人がかりでリヤカーに載せ、事務所まで運び込んだ。嶋村さんは「ほっとした」。保存先が決まるまで、一時的に保管すると決めた。
「起死回生のファインプレー」。横浜開港資料館調査研究員の吉田律人さん(38)は涙ぐんで喜んだ。
吉田さんは石碑の近隣に転居したほど、自他ともに認める「綱島温泉狂」。石碑が撤去された1日夜、ほろ酔いで現地を通り掛かり、青ざめた。嶋村さんに保護されたてん末を知らず、「一気に酔いが覚めました」。
10年前に最後の温泉宿が閉館し、3年前に日帰り入浴の「東京園」が無期限で休業した。綱島駅前は、東急東横線に乗り入れる相鉄線の新駅建設工事が進み、温泉街のわずかな面影も消えゆく。残された石碑は「綱島のアイデンティティー」(吉田さん)だった。

碑文によると、1933年3月に建立された。源泉の「発見者」は「飯田助大夫」とある。旧大綱村長。ひ孫の飯田助知さん(80)は、消失の危機を救った全員に感謝している。「時代の変化は急激です。失われてはいけない古(いにしえ)の記憶でした」
奔走した夫婦は「地元に残して」と願う。飯田さんも「郷土にとどまれば、曽祖父もきっと喜ぶ」とほほ笑む。

盛衰見届けた「生き証人」 花街、最盛期に宿80軒
大倉精神文化研究所所長の平井誠二さん(62)によると、源泉の発見は1914年。近くを流れる鶴見川の護岸工事に伴い、自宅を移転した家主が井戸を掘ったところ、ラジウムを含む赤水が湧き出したという。この家主は石碑に「発見所有者」として記されている。
石碑の向かい側に17年ごろ、最初の温泉宿「永命館」が創業。26年に「綱島温泉駅」が開業し、湧出地の樽町から温泉街が形成された。
本紙の前身「横浜貿易新報」によると、石碑は建立翌月の33年4月10日にお披露目された。往時の隆盛がこう報じられている。

〈閑寂幽朴の地であった綱島は一度発見されるや玉楼金台にも似た温泉旅館ホテルなど連延として建てつづき、蓬(よもぎ)が中の虫の声もあでやかな絃歌(げんか)のさざめきに変った〉
飯田助知さんの祖父、助夫さんは石碑建立について、「綱島一帯の繁栄と相俟(あいま)って時機に適したる挙と云(い)ふべし」と日記につづった。
50年代に最盛期を迎えると、80の温泉宿が軒を連ね、300人の芸者衆で華やいだ。県内で箱根に次ぐにぎわいで、横浜開港資料館の吉田律人さんは「宝塚(兵庫県)と比較されるほどの色街だった」と説明する。
転機は、64年の東海道新幹線開通。熱海や伊豆に客足を奪われ、高度成長期以降、徐々にベッドタウン化していった。
平井さんは、石碑はこうした盛衰を見届けた「生き証人」と評価する。「綱島は、石碑があった樽町から発展した。できるだけそばに公開して保存するのが望ましい」と話す。
