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かながわ鉄道廃線紀行
#02 京急大師線の一部と海岸電気軌道 京急創業者の立川勇次郎

話題 | 神奈川新聞 | 2023年11月21日(火) 05:00

立川勇次郎(1862〜1925年)=提供:立川元彦さん

 立川勇次郎は、明治から大正にかけて鉄道のほか電力会社の創設など、電気に関わるさまざまな事業を立ち上げた実業家である。

 江戸時代末の1862(文久2)年に現在の岐阜県西部の大垣で誕生した勇次郎は、24歳で東京に出て代言人(弁護士)として開業。上京3年後の1889(明治22)年に、東京市内において「蓄電池式電気鉄道」の敷設を出願している。このときの事情について、勇次郎本人は「私が電気のことに明るい為にやった訳ではありません」(『工学博士藤岡市助伝』)と語っている。

 電気鉄道の敷設を計画していた人物から「法律家を頼まなくては、出願することが出来ないといふので」(同前)出願の手続きを依頼され、法律家として関与。このことが、後に電気鉄道計画に携わるきっかけになったのだ。

ゼネラルエレクトリック(GE)社の社長、ライス(Edwin W. Rice)夫妻来日時のスナップ。中央ライス夫妻、左右が勇次郎夫妻(提供:立川元彦さん)

 結局、この計画は時期尚早として却下されたが、1890(明治23)年に開催された第3回内国勧業博覧会で、後に「日本のエジソン」とも呼ばれる電気工学者の藤岡市助博士らによって電車の試運転が成功し、「軌道条例」が制定されると、世間に電気鉄道敷設の機運が高まっていく。

 こうした状況を受け、あらためて電気鉄道の敷設を出願したものの、さまざまな出願グループが対立するなどの問題から東京市(当時)内の電気鉄道計画は進まなかった。そこで、東京市外で「関東ニ於ケル電気鉄道ノ標本ヲ実験」(『京浜急行八十年史』)し、企業としての電気鉄道事業の成功例を示そうということで、1899(明治32)年に六郷橋―大師間の営業距離約2kmで開業したのが、大師電気鉄道だった。

勇次郎一行、米国コネチカット州のGE訪問時。前列左から2人目が勇次郎(提供:立川元彦さん)

 その後、勇次郎は大師電気鉄道から名称変更した京浜電鉄の専務取締役(現在の社長に相当)を1903(明治36)年まで務めたほか、東京白熱電燈球製造(東芝の前身の1つ)取締役や東京市街鉄道(都電の前身の1つ)常務取締役にも就任。さらに、実現には至らなかったものの、私鉄版新幹線計画ともいうべき東京大阪間高速電気鉄道計画(東京―大阪間を6時間で結ぶ)でも主導的役割を果たしている。

勇次郎の曾孫の立川元彦さんと川崎大師駅前の京急「発祥之地」の碑

 このように東京での事業を成功させた後、晩年には郷里の西濃地方で養老鉄道(後に近鉄養老線。現・近鉄グループの養老鉄道)や、揖斐川電力(現・イビデン)の社長に就任し、交通・産業基盤の形成に努めた。

 なお、立川家には勇次郎とゼネラルエレクトリック(GE)社の社長、ライス(Edwin W. Rice)が一緒におさまった写真が伝わっている。京浜電鉄がGE社製の発電所用発電機や電車機器を輸入・使用していたことからの交遊であろう。


森川天喜(もりかわ・あき)
旅行・鉄道ジャーナリスト

 横浜市生まれ。慶応大法学部卒。現在、神奈川県観光協会理事、大磯町観光協会副会長、鎌倉ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。メディア出演、連載多数。近著に『湘南モノレール50年の軌跡』(2023年、神奈川新聞社)


 
 

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