じわりと少しずつ、しかし着実に危うい道を歩みつつあったこの国は、ついに立憲主義の否定という禁忌の領域に踏み込んでしまった。法が治める社会を捨て去ったと言ってもいい。
物を盗んではいけないのは社会のルールである。正当な手続きを経て法が公布され、犯せば罰せられる。法を変えずに「少しなら盗んでもよい」と勝手な解釈がまかり通るようでは、法治社会は成り立たない。
ことは最高法規である憲法の問題である。それなのに国民議論を置き去りにしたまま、解釈変更という邪(よこしま)な手法がまかり通ってしまった。
社会情勢を覆っている妖気にこそ、危うさを禁じ得ない。なし崩しの手続きで暗黒の社会に突き進んだ歴史が、この国にはある。1928(昭和3)年、焦点は治安維持法の改正案だった。
最高刑を死刑に引き上げる改正案は、かろうじて機能していた野党勢力の猛反発を浴びる。進まぬ審議に業を煮やした時の政府が使ったのは、帝国議会が閉会した後の緊急勅令という強硬手段だった。旧憲法下でも邪な手続きである。
その時代を覆う妖気をかぎ取り、歌人与謝野晶子は本紙の前身である横浜貿易新報にこう書いた。「現内閣が政略的に誇張して『国難』の感を国民に抱かせ、注意を転じさせて(中略)気勢を弱めようと云(い)ふ計画であろう」
安倍内閣も「国難」を強調した末に、最高法規を閣議決定で読み替えてしまった。それも国権の最高機関たる国会の閉会中に、である。国民の意向など立ち入る間すらなかった。
憲法9条の歯止めは、ほかならぬ歴代の自民党政権でさえ死守してきた重みがある。情勢が変わったというのなら堂々と憲法改正の必要性を国民に説けばよい。解釈とは後付けの理屈にほかならない。
勅令という強行突破で改正された治安維持法は、特別高等警察を産み落とした。そして最大の言論弾圧とされる横浜事件につながっていく。いま、政府は特定秘密保護法をも手にしている。なし崩しの行く末を憂う。
【神奈川新聞】