川崎市消防局に救助(レスキュー)隊が結成されて9月で50周年を迎えた。今や市内8消防署で228人を数えるまでになった救助隊は当初、その名を「レンジャー隊」といい、わずか20人で発足した。
1966年、1月9日の深夜。JR川崎駅前、さいか屋(閉店)の向かいに位置する雑居ビル、金井ビル3階のキャバレーから火が出た。6階建てのビルが煙に包まれた。逃げ遅れた12人が亡くなった。
犠牲を悔やみ、人命救助の部隊結成に向けた動きが急ぎ持ち上がった。各署から体力検定の成績優秀者が20人選ばれた。当時あった12メートル級のはしご車が屋上まで届かなかったことから、市民の寄付で32メートル級のはしご車が寄贈された。街の成長に合わせ、市民からの期待がいかに大きかったかが分かる。
当初の名称はレンジャー隊といった。ノウハウのない消防が教えを請うたのが、自衛隊のレンジャー部隊だったからだ。訓練のために採用した教官は「まさに鬼でした」。OBの加藤金男さん(73)は1期生として訓練に耐えた。
川崎競輪場を借り、ひたすら体力強化の訓練に励んだ。ロープ術の実践は崖が切り立つ三浦半島の鷹取山で行われた。崖と崖にロープを渡し、50メートルを進ませられた。同じく1期生の井上祐夫さん(73)が振り返る。「腕がぱんぱんになって動けなくなっても助けてくれない。大の大人が何人も泣いていました」
果たして訓練は生きた。加藤さんは川崎市役所近くの玩具店が燃えた際、はしご車をかけて1人を救った。井上さんも駅前の商店街「銀柳街」にあるラーメン店の火災で煙の中から男性を救い出した。「黙っていても体が動きました」と加藤さん。隊は徐々に拡大され、他都市の消防に教官として派遣されるほどにまでなった。
1分1秒が生死を分ける現場では自らの死とも背中合わせだ。89年に高津区蟹ケ谷で起きた崖崩れでは、住人を救助していた部隊が第2波にのまれた。3人の隊員が殉職した。
「事故が起きた8月1日は川崎消防にとって忘れ得ぬ日です」と若杉武・救助係長(48)。遺志を継ぎ、人を助け、自らも生きるという理想の救助を追い求め続ける。そのために日々の訓練がある。
半世紀にわたる歴史の中で、救助技術だけではなく現場での経験を資機材の開発や改良に生かしてきた。若杉係長は「ただそれを生かすも殺すも、やはり人。結局は人を育てるしかない。先輩方が築いた半世紀という歴史を、一人一人の手で次の50年、100年につなげていきたい」と話した。
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24日には50周年を記念して「レスキューフェア」がJR川崎駅東口、ルフロン広場で開かれる。午前10時~午後2時で、車両や資機材の展示、レスキュー体験のほか、音楽隊による演奏、ヘリのデモ飛行などが行われる。問い合わせは、市消防局電話044(223)2612。