人生最初の岐路は、学校給食を取り上げた新聞記事を読んだときだった。家庭の経済的困窮により学校に弁当を持参できない「欠食児童」がいた当時、子どもたちの将来を案じる政治家の“鶴の一声”で給食が実現したと報じていた。
3畳一間に5人が暮らす貧しい家庭で育った。「貧乏からの脱却に悩み、憤慨してもそれだけでは駄目だ」。政治家になり、人々の幸せを叶(かな)えようと、県庁職員を辞め、1979年に横浜市会議員に初当選した。
それから40年余り。11回の当選を重ねた末、市長になって行財政改革を断行すると決意した。「無駄な事業を精査し、外郭団体を整理する。それから市長の給与は半分にする」
市の借金をなくして健全な財政を取り戻す。子どもの将来を思い、見据えるのは「小中学校を完全給食にして無料化する」こと。全市域に足を運び、政策を訴えるつもりだ。
古美術商の免許を持ち、「古典の中に美しさを見いだすことが大事」と語る。好きな言葉は「ケセラセラ」(なるようになる)。カジノ反対から始まった今回の挑戦も、人生の岐路のひとつ。「なるようになっていくから人生は面白い」