かつて横浜の「裏駅」といわれた横浜駅西口は戦後復興の土地区画整理事業により基盤整備が進んだ。昭和30年代になると繁華街として急速に発展を遂げる。
1959年には横浜高島屋がオープン。東京五輪が開催された64年にはダイヤモンド地下街、さらに横浜おかだや(68年)、相鉄ジョイナス、三越横浜店(ともに73年)と続いた。
対する東口は開発が遅れた。背景について、そごうが入る「横浜新都市ビル」を運営する横浜新都市センター専務取締役の友田勝己(61)は、端的にこう説明する。「両者の決定的な違いは、西口の開発が民間、つまり相模鉄道の主導で進んだのに対し、東口は市有地が多く行政が絡んでいた点だ」
時は60年代。戦後の高度経済成長に伴い首都・東京への一極集中が進み、横浜市では、郊外のベッドタウン化と人口急増への対応が課題となっていた。
そうした中、65年に飛鳥田一雄横浜市長が提案した「六大事業」の一つが、都心部強化。横浜駅周辺と関内・伊勢佐木町に分断されていた市心部を一体化することで、活性化を図る-。この中核プロジェクトこそが、83年に着工するみなとみらい21(MM21)事業だった。
横浜駅は東西が分断された状態が続き、出島地区と呼ばれた東口は、資材置き場などが広がっていた。
このエリアにいち早く目を付け、進出を決めたのがそごう社長だった故・水島広雄とされる。69年に株式会社横浜そごうを設立すると、翌年、通商産業大臣から出店の認可を得る。出店にあたっては、水島自らが奔走したと伝えられている。
「政財界に太いパイプを持ち、おそらく都心部強化事業に関し早い段階から情報をつかんでいた。この地域に将来性を感じ、開発が本格化する前に開業することが重要だと考えたのでしょう」。関係者の一人は推測する。水島はそごうが“MM21地区の先兵”だと強調。従業員らは、店が、同地区のいわば扇の要の役割を果たすと自負していた。
東口の開発にあたっては開発公社を設立。県、横浜市、民間が一体となって進める方針が取られたが、商業施設の運営に関しては民間主導の事業体が望ましいとして80年、株式会社である横浜新都市センターが設立された。当初の筆頭株主は県と同市。京浜急行電鉄や横浜そごうなど民間企業も株主に名を連ねた。友田によると、そうした枠組みは当時としては珍しかったという。
同じ年、横浜駅では画期的な出来事があった。11月7日の東西連絡自由通路の一部開通だ。今でいう自由通路と西口地下街を結ぶ階段(通称・馬の背)の上にあった国鉄の改札口が撤去され、駅東西が一つの通路で結ばれた。同日、東口ではターミナルビルの横浜ルミネと地下街ポルタが開業。当日は見物客も含め約75万人が訪れる盛況ぶりだったという。いわゆる「横浜駅東西商戦」の始まりだ。
東口の核、横浜そごうの誕生はその5年後。オイルショックなど経済情勢の影響も受け、出店認可から実に15年がたっていた。 =敬称略