
国家戦略特区に県と東京都、千葉県成田市で構成する「東京圏」が選定された。京浜臨海部はすでに国際戦略総合特区が始動し、革新的な医薬品、医療機器の開発へ向けた「ライフイノベーション」の拠点形成が進んでいる。健康・医療分野で新たな特区が何を目指すのか。最新動向とともに検証する。
「人類史上、最も古い補装具は、紀元前10世紀の松葉づえの発明と言われている」。羽田空港内の会議室で19日に開かれた先端医療の研究開発をテーマにしたシンポジウムで、医学と工学の融合に取り組む東京大学の片岡一則教授はこう続けた。「それから約30世紀後、医療機器は体外への装着から人体内部の機能を代替、補完する方向へ進展している」
人体内の「必要な場所で必要な時に必要な診断と治療」を行う「体内病院」の構築。片岡教授は、川崎臨海部・殿町3丁目地区のライフイノベーション国際戦略総合特区で進むこのプロジェクトの研究リーダーを務める。
ナノサイズ(1ナノは100万分の1ミリ)の超微細な医療機器「ナノマシン」が体内を自律的に循環し、24時間、病気の原因分子、ウイルス、異常細胞の検出、診断、治療を行う未来の医療-。「実は医師でもあった漫画家の手塚治虫が1950年代前半に発表した『38度線上の怪物』で、医師を小さくして体内に送り込むアイデアを描いているのです」。それから半世紀以上が経過し、SFに込められた未来へのメッセージが現実に近づきつつある。
■ 「高い使命感」 ■
昨年11月、慶応大医学部・大学院医学研究科の教員、大学院生らで作る「慶應医学会」が、OBで同特区と関わりの深い人物の名前を冠した医学研究の賞を創設した。「野村達次賞」で、広大なさら地が広がっていた殿町地区にいち早く進出した実験動物中央研究所(実中研)を1952年に設立した。
「医療のインフラともいえる安全性を検証する仕組みを築き上げた開拓者」-。同地区への新研究所開設を記念した記録誌に国連難民高等弁務官を努めた緒方貞子さんが、実中研を作り上げた「高い使命感」をたたえる一文を寄せている。ポリオ(小児まひ)撲滅に大きく貢献した実験動物の開発を踏まえてのことだ。
野村の死後、研究所を引き継いだ長男の野村龍太理事長は、実中研が開発した世界オンリーワンの実験動物をライフサイエンス(生命科学)の成果を世に送り出すための「生きた物差し」と説明する。
実中研は、体内病院構築でも基礎研究と臨床をつなぐ研究開発の基盤の役割を担う。プロジェクトは、組織の枠を超え知識、技術を結集するオープンイノベーション体制で推進。医療産業の経営に詳しい東大の木村廣道特任教授が統括し、富士フイルム、日立製作所、帝人、味の素、国立がん研究センターなど産学22の企業・大学・研究機関が参画している。
■ 新たな胎動 ■
「多様な要素技術、人材を物理的に集約したコミュニティー」。木村教授は、出身母体が多岐にわたる研究者が「一つ屋根の下に集う」革新的なプロジェクト推進体制をこのように表現する。オールジャパンの技術の結集が目指すのは「社会への還元、社会の変革」という。
夢の医療を実用化する特区の原動力として同教授が着目するのは、近接したエリア内で集積が進む多様な地域資源だ。実用化の「入り口」となる安全性検査を担う実中研に加え、最終的に安全性、有効性の適正を評価する国立医薬品食品衛生研究所の移転も決まっている。「さらに隣接する羽田空港は、国内外の研究者らが集うオープンイノベーション型拠点にとって極めて重要な要素」
では、生命科学のイノベーション(技術革新)によって、どのような社会をつくろうとしているのか。片岡教授は「いつでも、どこでも、誰でも、心理的、身体的、経済的負担なく最先端医療の恩恵を享受できる社会。それを切り開くのがナノマシンだ」と力説する。
「われわれの実験動物が使われることによって、最終的に人類の命が救われていくことが原点」。実中研の野村理事長は、創設者の父が開発したポリオ生ワクチンの製造過程で毒性を調べるポリオマウスを引き合いに出す。人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使った世界初の臨床研究が始まる網膜剥離再生の安全性検査では、体内で人間の細胞や組織が生育するヒト化マウスが大きな役割を果たした。
「体内病院は病気の発症をあらかじめ防ぐ『究極の先制医療』なのです」(片岡教授)。高度な技術と使命感が結びつき、日本の近代化を担った京浜工業地帯の一角で新たな胎動が始まっている。
◆ナノテク活用で体内病院構築へ
木村、片岡教授らのプロジェクトは10年後の社会像や国民ニーズを見据え、医療・健康に関連する分野で革新的な研究開発を推進する国の「センター・オブ・イノベーション(COI)」に選ばれ、最長9年間をかけて体内病院の構築を実現させる計画だ。
COIは文部科学省が2013年度に創設した「革新的イノベーション創出プログラム」の一環で、充当される研究開発費は最大で年間10億円に上る。研究開発拠点として2015年中に殿町三丁目地区にものづくりナノ医療イノベーションセンターが完成する。
体内病院の基盤となるのが、ナノテクノロジー(超微細技術)を活用し、ナノレベルのカプセルに抗がん剤を包み、がん細胞に直接送り込む「ドラッグデリバリーシステム(DDS)」。片岡教授の研究グループはすでに臨床の段階に進んでいる。
ナノマシンには個人の疾患情報や、化学、光学、触媒技術を駆使し検診、診断、治療機能を発揮させるため「設計図」を組み込む。病巣を見つけると、細胞内に侵入し薬剤を放出するなどして治療する仕組みだ。
【神奈川新聞】