膨らみ続ける資金需要に融資が追い付かない。1980年代は金融機関にとってそんな時代だった。
全国各地で開発が相次ぎ地価が急騰。値崩れは起きないという「土地神話」にすがった企業は、自社の領域を飛び越えて不動産事業に触手を伸ばし、借入額を増やしていった。
横浜銀行(横浜市西区)元副頭取の大久保千行(68)は当時、東京や川崎の支店で法人の新規開拓などを担当していた。
「とにかく現場の人手が足りなくて。動けば動くだけ融資が出たから」
空前の好況に沸いた日本。しかし、実態は変転していく。資金の引き合いは徐々に弱まり、過熱した金融機関がわずかな需要に群がって貸し付ける「ゆがみ」が生じた。
ほどなくしてバブルははじけ飛ぶ。各社は不良債権の処理に追われ、97年には北海道拓殖銀行と山一証券が破綻。地銀随一の業績を誇った横浜銀も深い傷を負い、赤字にあえぐことになる。
「次」はうちなのでは─。行内でそんなうわさすら飛び交う中、横浜銀は97、98年度末に公的資金を受け入れる。総額は2200億円に上った。
「鬼のような仕事」
7年で完済する。横浜銀は国に示した公的資金の返済スケジュールでそう掲げた。年間の売り上げは2千億円台。その中から資金を捻出していくという難度の高い計画が動きだした。
生半可な支出の抑制では間に合わない。行き着いた策の一つが、人件費の大幅カットだった。6千人近い従業員の一部に早期退職や転籍を促していく。いわゆる「肩たたき」だ。
だが当然、離職を素直に受け入れる行員は多くない。そこで2000年代初頭、ある組織が立ち上がる。「業務態勢再構築委員会」。当時の頭取だった平澤貞昭(88)が執行役員以下の5人を招集し、リストラ策の断行を命じた。