他にはない神奈川のニュースを!神奈川新聞 カナロコ

  1. ホーム
  2. ニュース
  3. カルチャー
  4. 野坂昭如さん死去 「焼け跡闇市派」、鎌倉市出身、85歳

野坂昭如さん死去 「焼け跡闇市派」、鎌倉市出身、85歳

カルチャー | 神奈川新聞 | 2015年12月11日(金) 03:00

インタビューに答える野坂昭如さん =1986年4月(共同)
インタビューに答える野坂昭如さん =1986年4月(共同)

 「焼け跡闇市派」を自称し、小説「火垂(ほた)るの墓」などで直木賞を受賞、作詞家やタレントとしても活躍した作家で元参院議員の野坂昭如(のさか・あきゆき)さんが9日午後10時37分ごろ、心不全のため東京都新宿区の東京医大病院で死去した。85歳。鎌倉市出身。葬儀・告別式は19日午前11時から東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は妻暘子(ようこ)さん。

 1945年、少年時代を過ごした神戸で空襲に遭い、養父が死亡。その後、疎開先の福井で義妹が栄養失調で亡くなった。早大文学部中退。コント作家、CMソング作詞家などで活躍し、63年に「おもちゃのチャチャチャ」で日本レコード大賞童謡賞を受けた。

 小説「エロ事師(ごとし)たち」で本格的に作家デビュー。68年には、米軍による占領を題材にした「アメリカひじき」と、戦災の体験を基に書いた「火垂るの墓」で直木賞。「火垂る-」は高畑勲監督によるアニメ映画(88年)が話題となった。小説「同心円」で吉川英治文学賞、「文壇」とそれまでの業績で泉鏡花文学賞。

 「焼け跡闇市派」として社会批判を展開。サングラスをかけた独特な風貌で知られ、テレビCMで「みんな悩んで大きくなった」と歌い、歌手として「黒の舟唄」をヒットさせるなど、タレント活動でも人気を集めた。雑誌「面白半分」の編集長として掲載した「四畳半襖(ふすま)の下張(したばり)」がわいせつ文書として摘発され、80年に最高裁で罰金刑が確定。83年二院クラブから参院選に初当選し、同年、田中角栄元首相に対抗して衆院・旧新潟3区に立候補したが落選した。

 2003年に脳梗塞で倒れて闘病生活に入ったが、精力的に戦争の悲惨さを訴え続けた。亡くなる当日の午後4時ごろ、雑誌「新潮45」で担当する連載原稿を新潮社に寄せ、「この国に、戦前がひたひたと迫っている」と警告した。

 関係者によると、9日午後9時すぎ、東京都杉並区の自宅から病院へ搬送され、病院で死亡が確認された。暘子さんが119番した。次女の亀井亜未さんによると、亡くなる当日まで意識ははっきりしていたという。

生涯 貫いた反戦
不朽名作「火垂るの墓」


 小説「火垂(ほた)るの墓」などで知られる作家野坂昭如さんの死去の知らせを受け、仕事やプライベートでゆかりのある人々から10日、悼む声が相次いだ。

 映画監督の高畑勲さんは「火垂るの墓」と「戦争童話集」を「戦争に巻き込まれた弱者の悲劇を描ききった不朽の名作」と評する。「火垂る-」をアニメ映画化できたことに「心から感謝しています」と述べた。

 「久々に肉体から解き放たれて楽天的になり、日本国中を、沖縄を、自由に羽ばたきながら飛び回り、日本を戦争の道へ引きずり込ませまいと頑張っている人々を、大声で歌って踊って、力強く励ましてくれているにちがいない、と私は思います」。生涯、戦争に反対し続けた野坂さんの思いを代弁した。

 交友のあった作家でシャンソン歌手の戸川昌子さんは「お互いに飲んでばかなことばかりやっていた。ある意味、同志」と振り返る。

 「はちゃめちゃ」ぶりが度を越すこともあったが「戦災経験の反動もあったと思う」。命からがら戦禍を逃れた経験を朝まで語り明かしたこともあるという。「戦後は思う存分楽しんで、自分らしく生きた。その証しを残せたんだから、もういいわよね」としのんだ。

 戦時中の沖縄を舞台にした野坂さんの童話「ウミガメと少年」をCDで朗読した女優の吉永小百合さんは「ご回復を待っていましたのにかなわず、残念です。野坂さんの飛び抜けた行動力と非戦への思いを、今しっかりと受け止めたいです」とコメントを寄せた。

 親交のあった作曲家小林亜星さんは、野坂さんを「焼け跡世代のわれわれを代表する男でした。まことに心優しいジェントルマン」と振り返る。「おしゃれで、私はよくダサい服装をしていてしかられた。それも今となっては良い思い出。ご苦労さまと言いたいですね」と故人をしのんだ。

大島さんと“乱闘”も


 「どちらも子どもでしたよね。でもあんな魅力的な男たちはなかなかいない」。映画監督大島渚さんの妻で女優の小山明子さん(80)は10日、作家野坂昭如さんの訃報に接し、かつてパーティーの席で起きた夫との「けんか騒ぎ」をしみじみと振り返った。

 小山さんによると1990年に起きたけんかは、野坂さんがあいさつの順番を後回しにされたと思ったことが理由という。野坂さんが立腹して大島さんに殴り掛かり、大島さんも言い返した。当代きっての論客2人の“乱闘”は、メディアで大きく報じられた。

 だが、2人はすぐに謝罪し合い「お互いの存在を認め、これまで以上に交流が深まった」。

 その後、大島さんも野坂さんも体調を崩し、「2人とも妻の介護を受ける生活になったことに不思議な縁を感じる」と小山さん。

 大島さんは2013年に死去。「夫は晩年、自分の表現ができずに苦しんだが、野坂さんは病床の身でも平和を願うメッセージを届けられたので、うらやましい。どちらも大酒飲みで、やりたいことを貫いて生き抜いた。スケールの大きな男たちだった」と語った。

開戦日合わせ手紙 


 野坂昭如さんが7日放送のTBSラジオの番組「六輔七転八倒九十分」に寄せていた手紙の全文は次の通り。(表記は原文のまま)

 はや、師走である。町は、クリスマスのイルミネーションに、さぞ華やかに賑(にぎ)やかなことだろう。ぼくは、そんな華やかさとは無縁。風邪やら何やら、ややこしいのが流行(はや)っている。ウィルスに冒されぬよう、ひたすら閉じこもっている。賑わうのは結構なこと。そんな世間の様子とは裏腹に、ぼくは、日本がひとつの瀬戸際にさしかかっているような気がしてならない。

 明日は12月8日である。昭和16年のこの日、日本が真珠湾を攻撃した。8日の朝、米英と戦う宣戦布告の詔勅が出された。戦争が始まった日である。ハワイを攻撃することで、当時、日本の行き詰まりを打破せんとした結果、戦争に突っ走った。当面の安穏な生活が保障されるならばと身を合わせているうちに、近頃、かなり物騒な世の中となってきた。戦後の日本は平和国家だというが、たった1日で平和国家に生まれ変わったのだから、同じく、たった1日で、その平和とやらを守るという名目で、軍事国家、つまり、戦争をする事にだってなりかねない。気付いた時、二者択一など言ってられない。明日にでも、たったひとつの選択しか許されない世の中になってしまうのではないか。昭和16年の12月8日を知る人がごくわずかになった今、また、ヒョイとあの時代に戻ってしまいそうな気がしてならない。    野坂昭如

  (共同)


1974年12月、「中年御三家」を結成し、コンサートを行った永六輔さん(右)、小沢昭一さん(左)と野坂昭如さん=東京・日本武道館(共同)
1974年12月、「中年御三家」を結成し、コンサートを行った永六輔さん(右)、小沢昭一さん(左)と野坂昭如さん=東京・日本武道館(共同)
 
 

戦後70年に関するその他のニュース

カルチャーに関するその他のニュース

PR
PR
PR

[[ item.field_textarea_subtitle ]][[item.title]]

アクセスランキング