
大岡川と本町通りが交わる横浜市中区本町6丁目は関東大震災前、神奈川新聞社前身の横浜貿易新報社(横貿)のほか、銀行の親睦会である横浜銀行集会所や、生糸貿易で財をなした実業家・原富太郎(三渓)が経営した原合名会社の地所部なども軒を接していた。発掘された遺構群が、横浜経済の重点地区だった往時の活況を想起させてくれる。
「横浜の歴史にとって重要な施設が数多く集まる場所だった」。建築史が専門の吉田鋼市横浜国大名誉教授は説明する。銀行集会所と原合名会社は、横浜ゆかりの建築家、遠藤於菟(おと)が設計した。いずれも明治後期の赤れんが建築だった。
一方、横貿の社屋は鉄筋ブロック造を採用。吉田名誉教授によると堅固ながら廉価で当時普及し、横貿を施工した日本セメント工業はその主導的企業だった。1927年に完成し現存する市長公舎にも鉄筋ブロックが用いられている。れんが、コンクリートという新旧の構造が並ぶ本町6丁目は、近代建築の変遷を示す「見本市」だった。
横貿の社屋は、震災のわずか半年前の23年3月に利用開始。横貿は5日連続で記念式典の模様を伝えた。
「本社の新紀元として新しき活動に入(い)るの一転機」「来賓は三階の大応接室を中心として各室に休憩しつつコクテルの一杯に渇を癒しつゝ暫(しばら)くは本社新館の設備を巡覧され」…。
来賓の一人は「四百尺」(121メートル)のビルを建てた米国の新聞社シカゴ・トリビューンになぞらえ「横浜埠頭(ふとう)更に一層の高楼を新築ありて太平洋上遥にトリビューンと呼応されたし」(いずれも3月4日紙面)と、将来はもっと立派な社屋を建てるよう激励した。