1. ホーム
  2. ニュース
  3. カルチャー
  4. 多摩川スピードウェイ駆け抜けた伝説の名車 プラモデル化計画が進行中

多摩川スピードウェイ駆け抜けた伝説の名車 プラモデル化計画が進行中

カルチャー | 神奈川新聞 | 2014年10月2日(木) 03:00

オオタ自動車のレーシングカーのプラモデルを企画しているフォーサイトの長田社長(左)とタマチ工業の太田会長(中)、米内淨社長
オオタ自動車のレーシングカーのプラモデルを企画しているフォーサイトの長田社長(左)とタマチ工業の太田会長(中)、米内淨社長

伝説のマシンを卓上サイズで復元-。日本初の常設サーキット場「多摩川スピードウェイ」(川崎市中原区)のオープニングレースで優勝したレーシングカーをプラモデルに製品化する計画が進んでいる。戦前から戦後にかけて多摩川河川敷を駆け抜けたレーシングカーは、日本の自動車産業の礎を築いた技術の粋。優勝車を製作したメーカーの伝承者も模型化に期待を膨らませており、企画したプラモデルメーカーは「戦後のものづくりに生きた歴史を多くの人に知ってほしい」と話している。

「第1回全日本自動車競走大会」は1936(昭和11)年6月に開催され、ホンダ創業者の本田宗一郎や創業まもない日産自動車も出場した。並み居る強豪を破り優勝したのは、昭和初期から国産車を製造してきた都内の自動車メーカー「オオタ自動車」(当時は高速機関工業)の「ブルーバレット号」だった。

この歴史的なレーシングカーをプラモデルにして光を当てようとしているのは、プラモデルメーカー「フォーサイト」(東京都練馬区)の長田尚久社長(50)。同社はこれまで「戦艦三笠」などの戦艦シリーズのほか、南極観測船の「宗谷」や「しらせ」などのプラモデルを発売してきた。長田社長は「大手メーカーと同じ土俵で勝負しても勝てない。大手ではコストに合わないニッチなものを商品化してきた」と説明。今回は「オオタの『遺伝子』は戦後のものづくりに生きている。こうした歴史を広く多くの人に知ってほしい」と企画の意図を熱っぽく語る。

オオタ自動車は純国産メーカーとして国産車の歴史をリードし、小型自動車の礎を築いた。戦後しばらくして別会社と合併し、その名前は消えてしまったが、創業者・太田祐雄の三男祐茂が立ち上げた会社が都内にある。現在、トヨタなどの車部品加工を手掛ける「タマチ工業」(品川区)で、祐雄の孫にあたる邦博さん(68)が会長を務めている。

邦博さんによると、多摩川スピードウェイの優勝車を運転していた祐雄の長男祐一は、その後日産でフェアレディ1200などのデザインを担当。祐茂はトヨタの日本グランプリ用のレーシングカーのチューニングを担当し、優勝に導いた。オオタで技術を身に付けたエンジニアたちも他メーカーに移り、それぞれ力を発揮したという。

邦博さんは「オオタは歴史上のメーカーになったが、その情熱や技術は今に受け継がれ、いろいろな自動車メーカーの『栄養』になっている。プラモデル化は大変ありがたい」と話している。

長田さんは邦博さんらの協力も得て、模型化に必要な設計や金型製作のための下調べを続けている。

来春の販売開始を目指している長田さんは「最終的にはモータースポーツの盛んなヨーロッパのホビーショーにも出品したい。日本のモータースポーツの歴史を世界に伝えていきたい」と意気込んでいる。

◆多摩川スピードウェイ 1936年、日本で初めてとなる常設の本格的サーキット場として現在の川崎市中原区上丸子天神町の多摩川河川敷に開場。1周約1200メートル、道幅約20メートルのオーバル(楕円=だえん)コースで、約3万人収容の観客席を備えた。オートバイのレースにも使われた。戦後間もなく廃止され、現在は野球グラウンドとして使われている。コンクリート製の階段状の観客席跡が残っている。

【神奈川新聞】


多摩川スピードウェイ最初のレースで優勝したオオタ自動車のブルーバレット号(左)と3位だったホワイトシャーク号=タマチ工業提供
多摩川スピードウェイ最初のレースで優勝したオオタ自動車のブルーバレット号(左)と3位だったホワイトシャーク号=タマチ工業提供

日産自動車に関するその他のニュース

カルチャーに関するその他のニュース

PR
PR
PR

[[ item.field_textarea_subtitle ]][[item.title]]

アクセスランキング