
熱戦が繰り広げられる夏の甲子園球場。アルプススタンドで吹奏楽部の生徒が奏でる「狙いうち」(山本リンダ)や「紅」(X JAPAN)が白球を追う球児を鼓舞する。
風物詩といえるこの光景。クラシックやマーチが主流だった学校吹奏楽がポップスなどを演奏するようになった背景には、作・編曲家、指揮者として活躍し5月10日に90歳で死去した岩井直溥(なおひろ)さんの「音楽を楽しんでほしい」という熱い思いがあった。
ディズニー映画「アナと雪の女王」の主題歌「レット・イット・ゴー」、昨年のNHK連続テレビ小説「あまちゃん」のオープニング曲などなど。現在の楽器店では、幅広いジャンルの吹奏楽譜が並ぶ。しかし約40年前の学生吹奏楽の現場には、ポップス曲の吹奏楽譜は少なく、子どもたちがマーチやクラシック以外の音楽を演奏することは、考えられなかった。
音楽一家に生まれ育ち、ジャズ・軍歌・歌謡曲など幅広いジャンルに触れた経験を持つ岩井さんは、「学校吹奏楽の現場に、新しい風を取り入れたい。もっと音楽を楽しんでほしい」と発起し、英のロックバンド・ビートルズの「オブラディ・オブラダ」「イエスタデイ」などを吹奏楽アレンジしたアルバム「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」を1972年に発売。聴くだけではなく、実際に演奏できるようにと、楽譜も併せて販売したことは、奏者の増大にもつながった。
1974年には米の俳優、ロバート・デ・ニーロらが出演した人気映画の主題歌「ゴッドファーザー PART2 ~愛は誰の手に~」を同シリーズでアレンジ。保護者から「中学生に、マフィアの映画の曲は似合わない」など厳しい声もあったが、楽しんで演奏を続ける現場が声を鎮圧。ミッキー・マウス・マーチや、松田聖子、チェッカーズ、サザンオールスターズ、尾崎豊など、時代を代表する曲のアレンジを増やしたことで、ファンの数も増えていった。
「音楽の理屈を学ぶことより、楽しいと感じて演奏することが大事」という思いは、岩井さんの目を現場へと向けさせ、学校吹奏楽・市民楽団など日本各地の現場に出向き、自らタクトを振り、奏者や関係者が持っていた吹奏楽ポップスへの偏見を拭い、定着させた。
全国で開いたクリニックでは、「緊張したままでは、音も堅くなる」と、フランキー堺さん、植木等さんらと組んだバンド「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」で鍛えた“冗談音楽”の舞台を彷彿させる“おふざけ”も炸裂。
盟友のジャズドラマー・猪俣猛さんは「穏やかで、本当に音楽が好きな人だったよね。『曲を伝えるためには、リハーサルからみんなを巻き込まなくちゃ』と、薄くなってつやが出た頭をさすりながら『ピカーッ!!』と声をあげて、教室に入って行ったり、場をつかむ天才でした。練習のときは座って指揮をする人も多いけど、岩井さんはいつも立っていてね、『疲れないの?』と聞いたら、『座ると腰が入らないんだ。腰が入らないと感情が棒に伝わらない』と背筋をしゃんとして、見た目はもちろん、心の中もおしゃれな人でした」と故人をしのんだ。
1972年から続けてきた、「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」は、今年4月に発売した新作で42作目を数え、累計売り上げは70万枚を突破。遺作となった最新作では、ロックバンドTHE BOOMの「風になりたい」を選び、1月にあったレコーディングでは、横浜市の自宅から東京のスタジオまで出向いて、東京佼成ウインドオーケストラを指揮した。
シリーズをともに作り上げてきたオーケストラメンバーやスタッフは、「昨年から体調を崩しがちと聞いており心配でしたが、先生がスタジオに入ってきた瞬間、空気が明るくなり、士気が上がりました。元気になってほしいと演奏しましたが、逆に元気をたくさんもらい、みんなノリノリでした」と振り返った。
トランペットが高らかに響き、風をなぞるようなフルート、軽やかなパーカッションが奏でる音は、突き抜けるような青空と、陽気なラテンの空気を聴く人に連想させ、ステップを踏みたくなる楽しい楽曲に仕上がった。
「音楽を楽しもう」。
最後までそう言い続けた岩井さんの魂は、指導者、奏者、ファンらが継いでいく。岩井さんの長男・道博さんは「父は亡くなりましたが、曲は永遠に残ります。これからも楽しい岩井サウンドをみなさんに楽しんでほしい」と誇らしそうに話してくれた。【西村綾乃】
