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「城ラマ」マイスターが行く<5>河村城

カルチャー | 神奈川新聞 | 2017年5月8日(月) 19:21

【2016年12月4日紙面掲載】


河村城本城郭。畝堀がはっきりと分かる
河村城本城郭。畝堀がはっきりと分かる

 東名高速道路を東京から名古屋方面に車を走らせていると、大井松田インターの直前で突然視界が開け、富士山がほぼ正面に見えるポイントがある。この辺りは酒匂川流域の開けた場所である。酒匂川はここから下流の小田原方面に向かってほぼ真っすぐ流れ、川沿いには平地が続く。逆にここから上流に向かうと川は蛇行し始め、川幅は次第に狭くなり山岳地帯へと向かう。

 開けた場所から山岳地帯へと移り変わる境目、つまり御殿場方面に抜ける峠の入り口に河村城址(じょうし)がある。城はこのような境目に築かれることが多い。

 河村城といっても多くの人は耳にしたことがないかもしれない。しかし、中世城郭ファンの中では「隠れた名城」として人気の城なのだ。

 その理由の一つは、後北条氏の城の特徴である畝堀(うねぼり)(障子堀)があることであろう。畝堀とはその名の通り堀に畝を配したことからつけられた名前だが、寄せ手は畝の上の部分を一列になって進む必要があるため、守備兵は敵兵の進入路を限定しやすく効率的な防御が可能だ。この畝堀の存在も含め、河村城は戦国末期の後北条氏の城の姿を見ることができる貴重な遺構である。


河村城址碑
河村城址碑

 河村城は平安時代末期に河村秀高によって築かれたと伝わる。南北朝争の時代、1352年に河村一族は南朝方として新田義興、脇屋義治の軍勢とともに河村城に立てこもり、畠山国清を総大将とする北朝方と2年にわたる籠城戦を戦った。「山嶮にして苔滑らかに、人馬に足の立つべき処もなし」と「管領記」にも記されている通り堅城として知られていたが、1353年3月、南原の合戦で南朝方が敗れると河村一族は衰退した。

 戦国時代になると後北条氏の支配下となり、1554年に後北条氏と今川氏、そして武田氏との間で三国軍事同盟が結ばれると、この辺りは軍事的緊張の少ない地域となった。しかし軍事同盟が消滅し、武田氏の勢力が駿河に及ぶようになると河村城も武田氏の来襲に備え改修工事が行われた。

 その後、秀吉の小田原侵攻直前にも普請が行われ、現在の遺構になったと思われるが、後北条氏の滅亡とともに廃城となった。

 城跡は山北町によって整備が進められており、遊歩道や説明板も多く、お城にあまり詳しくない方でも十分に楽しめるようになっている。また、山北町は「森林セラピー基地」にも認定されている。森の木々に心を癒やされながら城跡を楽しむ、というのもなかなかいいものである。

 にのみや・ひろし 1968年生まれ。横浜市港北区のOA機器部品メーカー社長。城郭全体を地図や資料を使いこなして再現し「城ラマ」を製作している。「城郭復元マイスター」を自ら名乗る。
◎河村城址歴史公園 山北町山北 JR御殿場線山北駅から徒歩約10分、東名高速道路・大井松田ICから車で約10分

 
 

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