
若くしてドイツに移住、日独両方の言語で作品を発表してきた多和田葉子は、まぎれもない越境の人と言えるだろう。作中にも異文化遭遇はたっぷり描き出される。
しかし、「越境」や「異文化」ですべてを説明するのはもったいない。多和田文学は実に多様だ。読めば読むほどむずむずするような、語り尽くせぬおもしろさに満ちている。どうしてこんな作品世界を生み出すことができるのだろう。

その秘密は独特な「おしゃべり」にもあると私は思う。日本で長らく「文学臭」の定番となってきたのは、自然主義風の寂しげで涼しげな寡黙さだった。これに対し、多和田葉子の小説は実にやかましい。つべこべと口数が多い。ただし、単なる饒舌(じょうぜつ)体でもない。柔軟でオープンで、歯切れもいいが、愛想笑いはない。足早でせっかち。いささかツンケンしてもいる。しかも脱線したり勘違いしたり。本当におもしろい語り手だ。
小説家は読者に話を聞いてもらうのが商売。まずはほどよく愛想笑いを浮かべ、本を手にとってもらう。冒頭で引きこみ、展開で釣り込み、そしてターニング・ポイント。そこで「うむ」と納得させる。
多和田葉子の場合、はじめからこの「商売のルール」が壊れている。ニコニコしたり裏切ったりといった読者との駆け引きのかわりに、語るそばから自分にツッコミを入れ裏切る。高速の「一人裏切り」だ。自閉的でマニアックにも見える。
しかし、その世界は外に向かって開かれてもいるのだ。語り手は窃視と追跡が得意。頼まれてもいないのに世界を探偵してまわる。外の世界や他人や歴史に異様なほど関心を持つ人なのである。ストーカーの一歩手前だ。
『雲をつかむ話』はそんな語り手が「犯人」たちと出会う作品だ。作家自身の体験や生活感があちこちに散りばめられ、私小説風でもある。読者は「なるほど。海外暮らしは何かとたいへんですね」と苦労話として読みたくなる。しかし、私小説風なのに、自分のことよりまわりに興味が向く。たしかに主人公は変人だ。でも、閉じた変人ではない。外へ外へと植物のように関心を生え巡らせ、蔦(つた)のように他者にからみつく。
引用部にもあるように、この作品にはそんな多和田の小説家としての生き方を振り返る箇所が多い。こうやってこの作家は「犯人」を捜すことで生き延びてきたのだ。そんな生き方は最後に医者にたしなめられる。医者には愛があるのだ。本人もちょっとシュンとする。感動なしには読めない箇所である。

文学者の集いである「飯田橋文学会」のメンバー、平野啓一郎さん、田中慎弥さん、阿部公彦さん、ロバート キャンベルさん、中島京子さん、鴻巣友季子さんが神奈川新聞に連載します。
〈おわり〉