【2022年1月23日神奈川新聞掲載】
梅の花が咲き始めると早春の下曽我を思い出す。JR御殿場線・下曽我駅から宗我神社へ向かう参道を右にそれ、城前寺の前のなだらかに起伏した道を少し進むと木々の間に大きな屋根の数寄屋造りの山荘が見えた。
軒の低い表門をくぐって正面の母屋へ進むと膝丈ほどの羊の石像が左右にあった。和風な外観と赴きが異なる玄関の上部には、緑色の唐草文様の飾りが四つ、両開きの戸から板張りの広間へ入ると随所に中華風の意匠があしらわれていた。広間より一段高い西側の和室へ入ると障子にはめ込んだガラス窓越しに富士山が見えた。
これは太宰治の小説「斜陽」の舞台となった「雄山荘」を訪れた際の記憶だ。残念なことに山荘は2009年の失火で失われ、今はその姿を見ることはできない。
「斜陽」の主人公かず子は日記にこう記す。「この、ちょっと支那ふうの山荘に引越して来たのは、日本が無条件降伏をしたとしの、十二月のはじめであった」。かず子のモデルである太田静子が、実際に母と共に東京から下曽我へ疎開したのは1943年、親戚のつてで雄山荘へ移り住んだ。
その母が終戦後に亡くなり、1人暮らしをしていた静子のもとを太宰が訪れたのは47年2月21日、雄山荘に5泊している。滞在中に太宰は静子の日記を借り出し、西伊豆へと向かって三津浜に逗留(とうりゅう)。日記を下敷きに、舞台を伊豆の山中へ仮構して「斜陽」を執筆した。戦後の上流階級の没落を描いた「斜陽」は「斜陽族」という当時の流行語まで生み出し、太宰晩年の代表作となるのである。(神奈川近代文学館・安藤和重)
※神奈川近代文学館は改修工事のため3月末まで休館中。次回特別展は「生誕110年 吉田健一展」(4月2日から)