「秘境駅」を訪れたことがある。気ぜわしい12月末だった。静岡県の大井川鉄道井川線「尾盛(おもり)」。無人駅で周囲に人家はない。外へ通じる人道すらない。落葉した山肌が迫る。枯れ葉が地面を転がる音が響く静寂である。「何もないのが魅力」。ベンチに置かれたノートに誰かが記していた。僻地にある駅がいま静かなブームだ。
尾盛にはかつてダム建設宿舎があり駅となった。工事が終わり宿舎は消えたが駅だけは残された。急峻な谷あいに、暮らしと隔絶された不思議な空間ができた。そこではたった一人、何かと向かい合える。
秘境駅は、鉄道ファンの牛山隆信さんが名付けた。全国で寂れた駅を探し、「秘境駅へ行こう!」(小学館文庫)などを著した。その昔栄えた土地から人の営みが消えていく。だから秘境駅が生まれる。過疎が進む地方の姿を象徴している。
尾盛に降り数時間、冬の陽が傾いた。寒さが襲い、クマと出会う恐怖もこみ上げてきた。列車の走行音がレールを通してかすかに聞こえた。ディーゼル機関車がぬくもりを運んできた。
都会の騒々しさを離れて一人になりたいのなら山や冬の海辺でもいい。なぜ秘境駅なのだろう。そこにレールがあるからなのか。たった一人、過ごしていてもレールの向こうには人の暮らしがある。人とつながっていることの幸福感に気づかされる。さて、次はどの秘境駅を訪れようか。(O)