
北条早雲が1495(明応4)年、小田原城奪取を成し遂げた奇襲戦「火牛の計」は津波被害に乗じた侵攻だった-。静岡県伊東市が3月に刊行した市史・災害編で、こんな見解が示された。小田原城奪取については諸説あるが、地震津波の痕跡とみられる堆積物の分析から導き出された“新説”は、小田原市民の関心を呼びそうだ。
伊東市史によると、市内の宇佐美遺跡の発掘調査で、津波堆積物とみられる中世の地層が見つかった。調査地点の海抜に相当する7・8メートル以上の津波が沿岸に襲来した可能性が高い。
当時、伊豆半島周辺では相模トラフを震源とする関東地震と南海トラフの東海地震が短い間隔で連続発生したとみられている。宇佐美の堆積物はこのうち、大仏殿まで津波が到達したと記した史料が残る1495年8月15日の「鎌倉大地震」によってもたらされたと解釈している。
津波堆積層の調査などから、小田原を含め相模湾沿岸の津波被害は甚大で「謎の多かった早雲の小田原奪取という歴史的な大事件も、津波襲来という大自然の猛威が、そうした展開をもたらしたとみられる」との見解をまとめた。
伊豆の侵攻から大森氏が治めていた小田原城の奪取については「多数の牛の角にたいまつをくくり付けて攻め入った」などと後世の書物で語られ、戦略家早雲のイメージを決定付けたといわれてきた。
しかし、こうした見方は専門家の間で再考されつつある。年代についても見解が分かれている。
地元の小田原市史では、奪取は明応4年9月が有力としているが、「翌年の明応5年8月以降、1501(文亀元)年3月以前」との推察も併記されている。
伊東市教育委員会の金子浩之さんは個人的な見解とした上で「東日本大震災を目の当たりにすると、牛の群れは津波を比喩したものと思える。津波という魔物の牛を追うように早雲の軍勢が小田原城下に攻め入った姿が伝承されたのではないか」と踏み込んだ考察もしている。
小田原市文化財課は「興味深い見解。大森氏の権力弱体化が早雲の小田原侵攻の背景にあったことは間違いない。その要因の一つとして、壊滅的な津波被害と、その後の混迷があったのかもしれない」と話している。
今回のような天災と政変を結び付ける研究例は少ないとされる。地層の成分や含有物から地震の発生時期や規模を探る津波堆積物の分析は、東日本大震災でクローズアップされた。ただ、考古学分野での活用はまだ少なく、小田原市内の調査が待たれる。
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