1. ホーム
  2. 高校野球
  3. 「タテジマ」東海大相模・田倉雅雄の半世紀(下)継承

そこに流れるもの
「タテジマ」東海大相模・田倉雅雄の半世紀(下)継承

高校野球 神奈川新聞  2017年03月17日 14:26


45年ぶりに全国選手権大会を制し、閉会式を見つめる田倉(左)と門馬(中央)=2015年8月20日、甲子園
45年ぶりに全国選手権大会を制し、閉会式を見つめる田倉(左)と門馬(中央)=2015年8月20日、甲子園

 【運動部=真野 太樹】「監督は門馬だ。教え子がやるんだから、ちゃんとしろよ」

 原貢にそう言われた時、東海大相模野球部部長の田倉雅雄は44歳になっていた。

 「先生。一緒に、でかいことやりましょうね。力を貸してください」。29歳の門馬敬治は燃えていた。甲子園を知らない門馬。監督、部長として甲子園を逃し続けた田倉。そんな2人が全国制覇を掲げ、笑う者もいたという。門馬が「選手のころは半端なく怖かった」という田倉が防波堤になり、最強タッグとなっていく。

センバツ2000



 2人をつなぐのは、原から野球部の未来を託されたという強い思いだった。門馬が言う。「おやじ(原)の教えの中で生きてきた2人なので、そこ(頂点)を目指さなければいけない。2人は相模愛に燃える同志だった。おやじの教えから生まれた(でかいことという)言葉が、ぶれることはなかった」

 1999年春。最初の県大会初戦の相手は、因縁の横浜商。1点リードで降雨ノーゲームとなった翌週、改めて5-2で勝利し、歴史が動きだした。

 その秋、勢いに乗って県大会を制した。選抜大会出場を懸け、千葉で開かれる関東大会を前に田倉は久々に殺気立っていた。「ここを逃すな。俺は、これを勝っておけば甲子園というチャンスを何度も逃してきたんだ」。門馬はその頃の自分が馬で、田倉が手綱を引いていたようだった-と記憶している。試合当日まで猛練習が続いた。

 関東王者として甲子園に乗り込んだ2000年春、センバツを制した。門馬が「あまり覚えていない」という無我夢中の日本一を、田倉も「門馬は、これで負けたら監督をクビになると思ってやっていたから」と振り返った。

夏の扉2010



 残されたのは夏だった。1969年からの9年間で7度も夏の神奈川を制したタテジマ軍団が、田倉が指導に携わって以降、夏の甲子園に行けなかった。原からは「夏に勝て。選抜なんか優勝したって何だ」と叱咤(しった)された。

 立ちはだかるのは、いつも横浜だった。かつて渡辺元智が原に挑んだように、2人は挑み続けた。

 この間、決勝に駒を進めたのは7度。謹慎明けの81年、門馬が主将だった87年、98年の西神奈川大会。門馬とのコンビで02、06、07、08年。菅野智之(巨人)、田中広輔(広島)、大田泰示(日本ハム)を擁したチームでも扉をこじ開けられなかった。球場で罵声を浴びせられ、「俺じゃ勝てないのかな」と門馬がもらす泣き言を田倉はいつも静かに聞いていた。そして「でかいことやろうな」と鼓舞した。

 夏の呪縛が解けたのは、10年だった。決勝で横浜を破って33年ぶりの頂点。田倉は、胸に飛び込んできた涙の門馬を熱く受け止めた。そのまま甲子園で準優勝すると、翌春のセンバツで11年ぶりの優勝。

 野球部50周年を前にした14年に原が79歳で亡くなった。翌15年、日本高野連から原に功労賞が贈られた高校野球100年の節目に、タテジマが45年ぶりに夏の全国選手権大会を制覇した。「肩の荷が下りました」。短い言葉が、恩返しを果たすまでの長い時間を感じさせた。

プライド2017


半世紀近く、戦い続けたグラウンドに立つ=3月6日、東海大相模高
半世紀近く、戦い続けたグラウンドに立つ=3月6日、東海大相模高

 門馬は「田倉先生こそ、タテジマの血が流れている人です」と言う。創部当初はアイボリーだったユニホームは、田倉が入学した1970年春に、東海大と同じタテジマになった。

 1970年8月20日。

 2000年4月4日。

 2011年4月3日。

 2015年8月20日。

 約1400人いる野球部の卒業生で、この4度の日本一を味わったのは田倉ただ一人だ。

 指導者となってからは、31歳で九州の炭鉱の町から出てきた原が東海大相模の野球をつくり上げた当時の話を、合宿所の監督室で聞くことが多かった。「野球は打ってナンボ」「攻撃は最大の防御なり」「野球は根性ぞ」「夏に勝ってこそ本物」。なぜ原が自分をこの道に引き入れたのか聞いたことはないが、気がつけば、そうした教えを選手に指導していた。

 「原監督から学んだことを教え、教え子がまた、それを受け継いでいる。どこに行っても、ここで培われたことが土台となり、そこに流れているものがある。それが『タテジマのプライド』じゃないですか」

 保健体育科教諭として長年勤務した母校を退職し、今春からは首都大学リーグの事務局でリーグ運営に尽力していく。田倉はこの半世紀、追い掛けてきたものを考えている。勝つ喜びも頂点の歓喜も一瞬だった。栄光より、戦いに敗れ、ともに涙した教え子たちの記憶がよみがえってくる。

 「勝ち負けは結果だけど、どれだけ本気でやってきたのか。本気でやったからこそ、勝っても負けても次のステージで踏ん張りが利くんだと思う」=敬称略


シェアする