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原貢監督に導かれ
「タテジマ」東海大相模・田倉雅雄の半世紀(上)レール 

高校野球 神奈川新聞  2017年03月17日 14:15

夏の甲子園練習で原貢監督(左から2人目)から指導を受ける田倉(右端)=1972年8月8日、甲子園
夏の甲子園練習で原貢監督(左から2人目)から指導を受ける田倉(右端)=1972年8月8日、甲子園

夏の甲子園練習で原貢監督(左から2人目)から指導を受ける田倉(右端)=1972年8月8日、甲子園
夏の甲子園練習で原貢監督(左から2人目)から指導を受ける田倉(右端)=1972年8月8日、甲子園

 【運動部=真野 太樹】東海大相模高野球部とともに半世紀近く、歩んできた田倉雅雄部長(62)が今月限りで勇退する。ユニホームがタテジマになった1970年春に入学し、選手、監督、部長として4度の甲子園制覇に貢献し、東海大、東海大相模中でも指導に熱を注いだ。名将・原貢監督(故人)を慕い、その恩師から引き継いだ「タテジマのプライド」一筋で戦い抜いた47年間だった。

全国制覇1970



 「自分の人生はいつも原監督が道筋を、レールを引いてくれていた。今になればそう思います」

 田倉雅雄は勇退を目前にしても連日、東海大相模のグラウンドに姿を見せている。7期生として10代のころ、自らも汗と涙を流したグラウンドを見つめ、恩師・原貢への感謝の言葉があふれ出る。

 「枝葉でなく、幹の部分を大事にして、根を張らさないといけないとよく話されていました。基本をしっかりやりなさい、人間がやるスポーツだから人間性が大事だぞ。野球の原点に戻って指導しなさいと」

 東海大相模との出合いは、東京都町田市立堺中のエースだった1969年の夏。東海大相模が会場となった学習塾の夏季講習に参加した時、福岡・三池工から迎えられて4年目の原が率いるチームが、ちょうど初出場の甲子園を戦っていた。聖地への憧れを膨らませた少年は翌春、当然のようにその門をたたいた。

 1年の夏。二つ上の先輩たちが、初の全国制覇を果たした。田倉はアルプス席で声をからした。3年夏には投手として甲子園の土を踏み、東海大でも76年の大学選手権で日本一を経験した。

 大学卒業と同時に、原が高校から、長男の辰徳(前巨人監督)、津末英明(元日本ハム)、村中秀人(東海大甲府監督)ら甲子園を沸かせたスター選手を引き連れ、東海大監督に就任することになった。「俺が監督で行くから一緒に勉強しろ。コーチに残って投手の面倒を見てくれ」。そんな声が掛かった。

 大学では1学年下に遠藤一彦(元横浜大洋)という大黒柱がいたため、リーグ戦での出番はなかった。「ずっと補欠だったのに、原監督は自分がどういうふうに生活しているかを見ていてくれたんじゃないですかね」。迷わず指導者の道に入った。

青年監督1979



 大学で投手コーチを務めていた79年春、原から今度は高校で教えるよう指示があった。「分かりました」。弱冠24歳にして、直近10年で9度も甲子園に出場し、夏優勝、春準優勝の名門を預かることになった。


母校の監督に就任、1979年秋に続き、80年の春季県大会を制して笑顔を見せる
母校の監督に就任、1979年秋に続き、80年の春季県大会を制して笑顔を見せる

 まさに「右も左も分からない」中で、田倉率いる新生東海大相模は、いきなり結果を出していく。79年秋、その夏の甲子園で4強入りし、“ジャンボ”の異名を取った横浜商(Y校)の宮城弘明(元ヤクルト)を攻略して県大会優勝。80年春も、その夏の甲子園を制することになる愛甲猛(元ロッテ)を擁する横浜を倒し、県大会優勝を飾った。

 当然、甲子園だと勇んでいた80年夏の神奈川大会で、その事件は起こった。

 保土ケ谷球場で行われた3回戦。東海大相模はダブルエースの1人が大会初先発したが、一回に2四球、二回にも3四球と浮き足立っていた。

 青年監督は、二回を終わって引き上げてきたエースをベンチ前に立たせ、一度ずつ平手打ちした。その試合は10-0で勝利。田倉は試合後に「地に足が着いていなかったから、目を覚ます意味でした」と取材に応じ、エースも「初先発で体が宙に浮いている感じでした。あれでハッと目が覚めました。暴力といわれてもピンときません」と話していた。当時の高校野球ではよくある光景で、チーム内では誰もが愛のむちだと感じた行為だった。

出場辞退1980



 だが、その場面がテレビ中継されていたことが、問題を大きくした。抗議が殺到し、日本高野連の方針を受けて、2日後、東海大相模は異例の大会期間中での出場辞退を決定する。

 翌日の本紙には横浜高監督の渡辺元智らの「どこのチームにでもあることだし、監督が謹慎すれば済むこと。制裁が選手にまで及ぶのは納得がいかない」といった発言が並び、「なぜ辞退」「師弟愛だ」との投稿も相次いだ。田倉はその秋、日本学生野球協会から改めて1年間の謹慎処分を受けた。


出場辞退が決まった後、選手たちの手で胴上げされた=1980年7月23日、東海大相模高
出場辞退が決まった後、選手たちの手で胴上げされた=1980年7月23日、東海大相模高

 合宿所で選手と寝起きしていた25歳の兄貴分が、いかに慕われていたかを示す一枚の写真がある。出場辞退が決まった直後、学校のグラウンドで田倉が選手たちに胴上げされたシーンだ。宙を舞う熱血漢は泣いているように見える。

 秋、春、夏と県内で一度も負けることなく、甲子園を逃した選手たち。田倉は今、あの夏の行為が40年に及ぶ指導者人生で一番残念だったことだと振り返った。「甲子園に行くチャンスがあったチームだったのに、自分が子どもたちのチャンスを全部奪っちゃったわけですからね。あんなことしなくても勝っているのに。(選手は)勝っても負けても戦いたかったでしょうね」。取り戻せない夏の苦い記憶は、37年がたっても消えることはない。

 だが、野球の神様は粋な贈り物を用意していた。勇退が迫ってきた今年1月、当時の主力選手の一人から、うれしい知らせが届いた。=敬称略

 たくら・まさお 1970年に東海大相模高野球部に入部し、控え投手として72年夏に甲子園出場。東海大卒業後、77年から東海大野球部コーチ、79年から88年まで断続的に同高監督を務め、79年秋、80、86、88年春に県大会優勝。東海大相模中野球部監督を経て、95年から同高部長として3度の全国制覇に貢献。今月で定年退職する。保健体育科教諭。東京都町田市出身。62歳。


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