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絶望の淵で見た希望 小児がんと闘い続けた16歳

社会 神奈川新聞  2016年07月18日 11:36

 小児がんと闘いながら作曲活動を続けていた栄光学園高校2年の加藤旭さん=鎌倉市玉縄=が5月、逝去した。享年16。病気の影響で両目の視力を失いながら、同じように病に立ち向かう子どもたちを励まそうと音符に思いを込めてきた。光が閉ざされた世界で「一筋の希望」に向かって歩み続けた足跡は、絶望にあっても前向きに生きることができる人の強さを教えてくれている。

 それは、過酷な宿命に打ち勝とうとする旭さんの心の叫びのようでもあった。力強い重厚な旋律が会場に響き渡った。

 昨年10月、旭さんが闘病中に書き上げたピアノ曲「A ray of light~一筋の希望~」。6月5日、都内のホールで開催された追悼コンサートで初めて披露された。旭さんが師事したピアニストの三谷温さんが奏でる遺作曲に聞き入り、来場者は早過ぎる死を悼んだ。


視力を失いながら作曲に取り組んだ加藤旭さん=昨年11月、鎌倉市の自宅
視力を失いながら作曲に取り組んだ加藤旭さん=昨年11月、鎌倉市の自宅


 曲の売り上げの一部を小児がんや難病患者の支援団体に寄付するセレモニーも行われた。舞台に立った父康裕さん(45)は「自分が作った曲を何かに役立てたいという願いがかない、旭も喜んでいるはず。会場のどこかで楽しんでいると思います」とあいさつした。その言葉を聞きながら、私は見ることができなかった旭さんのとびきりの笑顔を想像した。

恩返し


 鎌倉市の自宅で初めて取材をしたのは昨年11月のことだった。旭さんはベッドで横になることが多く、短時間で済ませるのを条件に応じてくれた。

 どんな思いで作曲しているのか。旭さんは「闘病中の人やその家族を元気づけたい。同じ経験をしている僕だからこそできることだと思うんです」と答えた。「何の役にも立たないのでは、やる気は出ません」

 そう考えるようになったのは、3年ほど前に脳腫瘍が見つかり、入院生活を送っている時だった。「頭痛やだるさを抱えながら病院で一人過ごす時間はとにかくきつく、誰かが入って来てくれるのを今か、今かと待っていた。家族や友達、先生が来てくれた時のうれしさは格別だった」と言い、「今度は僕が人を喜ばせたいと思った」。支えられている実感から、人を励ますことで恩返しをしようとした。

 当初は曲に自信があったわけではない。妹から「ずっと作曲をしてきたんだから、生かせばいい」と背中を押されたものの、「僕の曲が受け入れられるだろうか」と不安を抱いた。それでも「励ましてくれる友達や先生らの顔が浮かんで自然と力が湧いた」。三谷さんらに協力してもらってCD制作を始め、昨年5月、幼少期から書きためてきた27曲を収録した「光のこうしん」の発売にこぎ着けた。

 購入者から「元気が出た」などとメッセージが寄せられ、旭さんは「自分の名前は知られなくていい。曲を口ずさんでもらえるのが一番うれしい」と喜んだという。母希さん(43)は「こちらが悩んだり落ち込んだりしていたら失礼だと思うほど、生き生きとしていた」と当時の様子を語る。「誰か」を支えようとしたからこそ、支えてもらうことができた。

死生観


 7月に自宅を再訪した。「このたびは…」とお悔やみを告げると、希さんは「堅苦しいのはやめましょう」と、明るい表情で迎えてくれた。

 真っ先に聞かせてくれたのは、前回の記事の反響だった。当時、県内の教員から激励の言葉が寄せられたという。闘病中でも作曲によって多くの出会いがあったことを喜んでいた。

 立ち上がることが難しくなり、両目から光さえも奪われた旭さんが、作曲に取り組み続けることができた理由を知る手掛かりとなるエピソードも聞くことができた。

 旭さんは発症後に詩人・高見順の作品「生と死の境には」を読み、感想文を書き残していた。

 〈作者の心は、死を生から分断されてしまうものとただ恐れるのではなく、崇高なものとして肯定的に受け入れようと動いているように思う〉

 旭さんの生き方に、その死生観に通じるものを感じた。「光のある世界への憧れを捨てきれない。お母さんの顔だって見たい」と、涙ながらに訴えたこともあったという。それでも「困難に遭っても、前に進もうとする中で見えてくる希望」を見いだし、それを曲で表現したのだという。

 闘病者やその家族に向けてメッセージも残している。

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