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津波そのとき~千葉・旭市はいま〈4〉 地域を結ぶ種まき

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神奈川新聞  2004年06月06日公開  

手芸品などが並ぶスペースで会話を楽しむ小菅さん。この一帯も浸水した =千葉県旭市横根
手芸品などが並ぶスペースで会話を楽しむ小菅さん。この一帯も浸水した =千葉県旭市横根

 もともとは縁のなかった千葉県旭市飯岡地区に暮らす小菅恵子(75)は異色の存在だ。青果店だったこぢんまりとしたスペースを改装、人々が気軽に集えるようにと小さなテーブルといすを置き、手作りの品々を並べている。

 亡き夫の古里、飯岡に移り住んだのは、2013年の夏。自分自身が被災したわけではないが、東日本大震災が人生を変えた。それまでは40年以上、東京・町田の団地で暮らし、「田舎町に住もうとは思っていなかった」。

 夫の両親が残した海辺の土地に、夫が自ら設計して建てたセカンドハウスがあった。がんを患い、闘病していたときに津波が直撃。動画共有サイトで付近の被災状況を知り、覚悟を決めて駆け付けると、窓ガラスは粉々になり、家の中に入り込んだ砂の厚みは数十センチもあった。

 夫にとって、小さなその家で過ごす週末はかけがえのない時間だった。高校時代の仲間と訪ねては、心ゆくまでバンドの演奏を楽しんでいた。「舞台まで造ってあったのよ」

 いずれは終(つい)のすみかに-。そんなささやかな夢を夫が描いた場所だった。

 無残な姿をさらしたまま放置するわけにはいかず、補修することになった。しかし、被災のショックを引きずった夫は、その完成をみることがないまま11年9月、生涯を閉じた。69歳だった。

 「お金をかけて直したんだから、住まないと」。町田で長年携わっていた地域福祉の活動が曲がり角を迎えていたこともあり、小菅はセカンドハウスへの移住を決心する。

 当初は気兼ねなく話せる相手もおらず、こもりがちな日々が続いたが、店じまいした青果店を偶然見つけたことが転機になった。家主の厚意で借りることができ、「ホッとステーション菜の花」と名付けた。

 オープンは15年3月。「1月に始めることもできたけれど、私なりに意味を持たせたつもりだった」。この地域の人々にとっての転機に自らの再出発を重ね合わせた。

 しかし、立ち位置は難しい。店内の壁に津波の写真を飾ろうとしたが、地元の人からは「みんな見たがらないから、やめたほうがいい」と助言された。被災の体験を共有していない自分に何ができるのか、思案を続けている。

 一つの答えのようなものが見えてきている。飯岡は住む人が減り、高齢化が加速し、活気が失われた、とよく耳にする。だったらこのスペースを使って、高齢者の「仕事おこし」を手伝えないか。「1日置きぐらいとか、1日数時間とか、それぞれのペースで働きたいという人は多いはず」

 自らの介護予防も兼ねたこのスペースで、少しずつ増え始めた仲間に「生涯現役」の輪を広げ、地域を結ぶ種をまいていこう。そんなことを描きながら、今日も茶飲み話に興じる。

 =敬称略


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