1. ホーム
  2. 話題
  3. 段葛再生<1>源氏嫡流の象徴整備へ

鶴岡八幡宮移転
段葛再生<1>源氏嫡流の象徴整備へ

話題 神奈川新聞  2016年01月08日 15:26

鎌倉幕府の守護社であった鶴岡八幡宮。源頼朝は鎌倉入りした2年後に段葛を造る
鎌倉幕府の守護社であった鶴岡八幡宮。源頼朝は鎌倉入りした2年後に段葛を造る

 源氏の氏神、鎌倉幕府の守護社であった鶴岡八幡宮の参道・段葛(だんかずら)の整備が2014年11月から行われている。工事は順調に進み、今年3月に渡り初めが予定される。段葛は国史跡指定の八幡宮の境内に含まれ、その歴史は同宮とともにあった。再生を機に段葛の歴史の舞台を歩いた。

 平治の乱で平家の捕虜となり伊豆・蛭ケ小島に流されていた源頼朝のもとに1180(治承4)年4月27日、後白河法皇の皇子・以仁(もちひと)王の平氏打倒を呼びかける令旨(りょうじ)(命令書)が届いた。

 頼朝は水干(すいかん)姿に改めると、男山方面に向かって遥拝したあと、令旨を開いた。男山は京都の西南にある山で、源氏の氏神・石清水八幡宮があった。頼朝が、挙兵を決意した瞬間だった。

 頼朝は緒戦を勝利で飾ったものの、8月23日の石橋山(現、小田原市)の合戦に敗れて安房国(現、千葉県)へ逃れた。1カ月余り後の10月6日、東国の武士団を糾合して鎌倉に入った。翌日、鎌倉・由比郷(現、鎌倉市材木座)の鶴岡八幡宮(現、元八幡宮)を参拝。同宮は、相模守や陸奥守を歴任、奥州平定の恩賞として朝廷から伊予守に任ぜられた先祖の源頼義が、康平年間に石清水八幡宮を「ひそかに」勧請していた。

 頼朝は、参拝から5日後の12日には、八幡宮を由比郷から小林郷北山の現在地に移す。源氏の嫡流であることを広く宣する素早い措置だった。簡素な社(やしろ)だったため、翌年には新しく造り直す。

 頼朝にとっては立派な建物だけではなく、それに見合う参道を造ることも当初からの計画であった。実現するのは鎌倉に入ってから2年後。「詣往(けいおう)の道」と呼ばれた。その際、段葛も同時に造られたとみられる。

 鎌倉幕府が編さんした「吾妻鏡」に「若宮大路」の名称が出てくるのは1185(元暦2)年5月16日の記事である。同書では、若宮大路と段葛の区別がはっきりしない。「詣往の道」は、大路と段葛の二つを含んでいたとされる。

鎌倉幕府の守護社であった鶴岡八幡宮。源頼朝は鎌倉入りした2年後に段葛を造る

 あさだ・つよし 1944年生まれ。68年神奈川新聞社入社。元横須賀支社長兼報道部長、広告局長。2008年かなしんサービス社長を退任。著書に「海軍料亭小松物語」(かなしん出版)、共著に「三浦一族と相模武士」


シェアする